不忠
審神者は蜻蛉切の広い背中に顔を寄せた。
たぶん審神者が離れるまでそうしてくれることを許してくれるだろう。
なにせ、彼は優しいから。
嫌われる前に離れたいが、もう少しだけ。
「主――…」
背中から直接振動が伝わってくる。
低く穏やかな声である。
「何ですか」
どんな優しい言葉で拒絶してくれるのだろうか。
「主は自分がその特別な刀剣であると言って、
信じてくださいますか?」
優しすぎる。
「嘘はいいんです、蜻蛉切さん」
「嘘ではありません。
自分は自分の身分も弁えず、主をお慕い申しております」
審神者が顔を上げると、
蜻蛉切りは後ろからでも分かるほど耳まで赤くなっていた。
「すぐに信じてはいただけるとは思っておりません。
自分も主の言葉が俄かに信じられません。
自分に都合の良い幻を見ているような気がするのです。
……失礼します」
すっくと蜻蛉切は立ち上がり、
大またに歩いて部屋を出て行った。
一人残された審神者は何が起こったのかいまいち理解が追いつかず、
暫くその場から動くことが出来なかった。
正気を取り戻したのは「朝飯だぜ」と薬研が膳を運んでくれたからで、
部屋の真ん中でへたり込んでいる審神者を見て膳を取り落とした。
「大将!?」
「え?
あ、ああ、薬研君……って、お膳が!?」
「どうした?
何かあったか?」
何があったって。
『主をお慕い申しております』
蜻蛉切の低い声が脳内で再生される。
「いやいやいやいや、何も。
ちょっと立ちくらみがしただけ!」
「本当か?」
「うん、ごめんね変なところ見せて驚かせちゃって」
「全然。
すぐ新しいの持ってくるから、大将は座ってて」
薬研はてきぱきと膳を片付けて戻り、
そしてすぐに新しいのを持って戻ってきた。
後ろには雑巾を持った五虎退がくっついている。
「あるじさま、大丈夫ですか?」
「ありがとう、今日はもう元気になったから」
「書類の方は長谷部さんが片付けてるから、今日もゆっくり休めって」
あんな形で部屋を出て行ったのに、
蜻蛉切はそんな手配までしてくれたのか。
「申し訳ないなぁ……。
二人も、仕事増やしてごめんね」
「いや、俺っちは大将の顔が見れたから」
「僕もです」
「本当にありがとう」
二人と五匹の子虎はそのまま審神者が食べ終わり、
大人しく布団に戻るまで部屋に居てくれた。
部屋に一人残された後、
最初はおとなしく寝る努力をしていた審神者だったが、
頭の中は今朝の蜻蛉切とのやりとりで一杯で、再び大混乱に陥った。
『主は自分がその特別な刀剣であると言って、信じてくださいますか?』
そんなに都合よく特別な刀剣がごろごろ転がっている訳が無い。
蜻蛉切の言葉を疑うわけではないが、普通に考えたらそうだろう。
希少なものだから特別なのだ。
でも蜻蛉切はそう言っていたし、
でもそんな都合の良いことばかり起こる訳がないし。
その考えをいったりきたりしていたが、
そもそもそうやって悩み続けた結果体調を崩したのである。
しかも、結局回答は保留がかかった状態である。
「ああああっ!!
考えるの止め!」
がば、と体を起こす。
部屋の外に出られるだけの準備をととのえて、
審神者は部屋の外へと久しぶりに出た。
部屋に篭る前と変わらないが、
皆出払っているのか静寂に包まれている。
仕事部屋には人が居る気配がしたので覗いてみると、
うっすらと笑みを浮かべた長谷部が何かを書いていた。
表情が表情だけに少し恐ろしい光景である。
何と声をかけたものかと迷っていると、長谷部が顔を上げた。
「主、お加減は大丈夫なのですか!?」
長谷部は先程までの鬼気迫る表情から一変し、気遣わしげな顔になる。
「え、ええ、大丈夫です、ありがとう。
少しくらい動いておかないとと思って。
長谷部さんもその顔色……無理をさせたみたいですね。
すみません」
長谷部の目の下にはくっきりとしたクマができている。
そのクマが消えたところは見たことがないので、
通常運転といえばそうである。
「いえ、主のお役に立てるなら。
ご判断を仰ぐ必要のないものは片付けておきます」
「明日には戻りますから後は残して休んでくれてかまいません。
というか、休んでください」
「お加減が優れぬ間、本丸を滞りなく運営するのは私の役目。
お任せください」
梃子でも動かなさそうな長谷部に審神者は説得を諦めた。
「……今日は甘えさせてもらいます。
長谷部さんのおかげで何の不安もなく休めます。
ありがとう」
本当は長谷部の体調も心配だったが、
長谷部は嬉しそうに目を細めた。
彼が近侍であったときには厳しい顔しか見たことが無かった。
あの頃は仲間も少なく、余裕も無かったのだろう。
「報告書もまとめてあります。
明日はそれに目を通し、ゆっくりしていただければ」
「報告書は蜻蛉切さんが戻ったら部屋に持ってきてもらってください。
今日は本当にもう結構元気なんです」
審神者がそう言うと、長谷部は表情を曇らせた。
「申し訳ありません。
蜻蛉切は遠征の部隊入ったので戻るのが少し遅くなります」
「かまいません、少し話もあるので」
「そういう事でしたら承知致しました。
……蜻蛉切が給仕を短刀にしか頼まないもので、
打刀や太刀は皆心配しております。
明日にはお元気な姿をお見せください」
そういえば、部屋に来るのは短刀たちばかりである。
「頑張りますね」
「よろしくお願いします」
このまま和やかに談笑……といく訳もなく、
長谷部に追い立てられるように部屋に戻されてしまった。
もっともらしく蜻蛉切を部屋に呼びつけることに成功したので、
それに備えて休むことにする。
少しでも前進しているのだと思うと少しだけ気が楽になる。
遠征組は長谷部のいうとおり戻りが遅く、
日も暮れかけた頃合で戻ってきたらしかった。
「蜻蛉切、参りました」
「入ってください」
すい、と襖が開く。
蜻蛉切は思いつめたような顔でそこに居た。
「待っていました」
審神者が微笑むと、蜻蛉切は更に苦しそうな顔をした。
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