不忠
蜻蛉切は初めて主から逃げた。
『私は蜻蛉切さんのことが好きです。
共に戦う仲間としてではなく、それ以上に』
主の、苦しげな声が耳に残っている。
背中に触れた感触も。
あのときの状況は仔細まで忘れることができないだろう。
はっきり言って、理性の箍が外れそうだった。
できるなら抱きしめてしまいたかった。
主は自分がどれほどの緊張感を持って相対しているのかご存知無い。
そして、その幸せな告白が自分の夢か何かだとしか思われず、
とにかく他の誰かに会って現実であることを確かめたかった。
仕事の手配をして、自分は空席の残っていた遠征の部隊にお邪魔した。
丁度良いことに帰還が遅く、常ならば翌朝の報告が許される便である。
とにかく先延ばしにしたかった。
無事に任務を終えて帰還したが、出迎えてくれたのは長谷部だった。
「蜻蛉切、戻り次第話があると主から言付かっている。
資料はお前の机の上に用意してあるから持っていくように」
「分かった。
だが、先に汗を流してからにさせて欲しい。
主の前にこれではな」
そのまま連れて行くとでも言いそうな長谷部に、蜻蛉切はそう逃げた。
言い訳はすんなりとおり、蜻蛉切はまず風呂場に直行した。
長湯をし、もう大丈夫だろうと夜食のおにぎりをほおばっていると、
再び長谷部が現れた。
「蜻蛉切、まだなのか」
「腹ごしらえをさせてくれ」
「それを食ったら行けよ」
「わかった」
食堂から出て行く長谷部を見送って、
もう一つおにぎりを手に取ったところで三度長谷部が現れた。
「これを持って、主の所へ、行け」
どさり、と机の上に報告書の束が置かれる。
このままでは長谷部はずっと後をつけてくると悟り、
蜻蛉切は腹をくくって主の部屋を訪れた。
「蜻蛉切、参りました」
先延ばしにしたせいで随分時間が遅かったが、
主の部屋は明かりが灯っていた。
「入ってください」
朝聞いた声と当然ながら同じ声で主が言う。
しぶしぶ襖を開けて中に入ると、主は疲れたような顔で座っていた。
「待っていました」
微笑みを浮かべるが、顔色は冴えない。
「報告書をお持ちしました」
「ありがとう。
その辺りに置いておいてください。
今朝のことですが――…」
蜻蛉切は頭を下げ、畳に額をすりつけた。
主ならばそれで口を閉ざしてくれるだろうと思ったが、
そうはいかなかった。
「蜻蛉切さんは私のことを好いてくれてるということで良いんですよね?」
「左様です」
「では、どうして私を見てくれないんですか」
「自分はご無礼を」
「私も好きだって言ったんですけど、信じてくれてないんですか?」
「主を信じぬことなどできません」
「じゃあ、どうしてそうしているんですか」
「自分は」
蜻蛉切は言葉をそこで切った。
何を言いたいのだろう。
どんな言葉で、何を、何から伝えたら。
「自分にはまだ、実感が湧かず。
いつ刀解を命じられるのかと」
「蜻蛉切さん、顔をあげてください」
思いのほか近くから主の声がした。
恐る恐る顔を上げると、目の前に主が座っていた。
手が伸びてきて、蜻蛉切の頬に触れた。
「私は歌仙を失った友人の轍は踏みません」
顔が近い。
「主」
「その顔は友人の歌仙のことを知っていた顔ですね?
私は失って後悔するくらいなら、手に入れて後悔したいんです。
蜻蛉切さんが優しいから。
強欲な主でごめんなさい」
「自分は優しくなどありません。
主は自分にどれだけ自制を強いているのかご存知ない。
もう無理です」
蜻蛉切は主を抱き寄せて口付けた。
主の体はどこもかしこも柔らかく、
強く抱くと潰れて壊れてしまいそうだった。
唇は甘く、これ以上の美酒など無いと思われた。
審神者は目が覚めた。
朝の日差しで部屋の中は眩しいほどでもなく明るい。
(蜻蛉切さん)
そこに居ると思って寝返りを打って、
あるべきところに何もなく、ごろりと転がってしまった。
(いない)
布団のなかの、自分よりも巨大な人間が消えている。
手でそこに居ただろう場所を撫でるが、既に冷たい。
ぱっちりと目が覚めて体を起こすと、
部屋の中に見慣れない大きな塊があった。
よくよく見てみると蜻蛉切である。
蜻蛉切が体を小さく折りたたんで土下座しているのだった。
「……おはようございます」
「おはようございます」
「いつからそうしてるんですか」
「目覚めてからになります」
「なんで」
「主の体に傷をつけましたので、刀解を――…」
「する訳無いじゃないですか」
審神者は頭を抱えた。
そして、少し意地悪を思いついた。
「そうですね、少しお願いしたいことがあります」
「はっ!」
「取りあえず蜻蛉切さん以外全員遠征に出してください。
できるだけ長時間。
蜻蛉切さんはここにいてください」
ぽんぽん、と空いている布団をたたく。
「空いてるんで」
「主……」
「お願いしますね」
「ご命令とあらば」
蜻蛉切は大きな体を折りたたんだまま、
消え入りそうな小さい声で返事をした。
「ん?
珍しいのお、主が散歩しちゅう」
陸奥守は遠征から戻ってきて、
蜻蛉切と並んで歩く主の姿を遠目に見つけた。
「長かったね、結構時間がかかったな」
にっかり青江がため息をつく。
「何がじゃ?」
「いや、二人は恋仲なんだとずっと思っていたからね」
「はぁ?」
陸奥守はもう一度二人の様子を見たが、
別に以前から変化は無いように思える。
「主はね、僕らには主としての笑顔しか見せてくれないんだよ。
背伸びをして、武装しているような、ね。
でも蜻蛉切の前だとそうじゃなかったから。
面白そうだからちょっかい出してみたかったけど、
相手が蜻蛉切じゃあ僕の命が危ないからね」
肩をすくめる青江だが、陸奥守にはさっぱりである。
「ワシにゃあよお分からん」
「おい、さっさと次の遠征の準備だ」
長谷部が別の遠征部隊を率いて戻ってきた。
命令が雑で、
こちらは長谷部以外は短刀ばかりで遠征というより遠足である。
「長谷部、おんし蜻蛉切と主のことは何かしっとったがか?」
陸奥守があらましを説明すると、長谷部はむっと顔を顰めた。
「いや……だが主が留守を任せられるのは俺だ。
俺が一番の忠臣だ」
こちらはこちらで闇が深い。
「お、おう。
応援するぜよ」
「なら準備だ」
長谷部がきりきり歩いていく。
陸奥守はもう一度二人の方を見た。
主がこちらに気づいて手を振っている。
その隣の蜻蛉切の表情が、
最初の頃のように穏やかなものに戻っていることに気がついた。
長谷部の顔色も過労死から遠のいているようだし、
主も楽しそうで、しかも本丸に居てくれる。
「どっとはれ、ちゅうことかの」
陸奥守そう呟きながら、
短刀たちと一緒に主に向かって手を振り返した。
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