不忠


戦場で敵を殺すことで蜻蛉切はなんとか平静を保つことができた。
それが慣れてくるとそういうものだと納得できるようになり、
相変わらず主は「怪我はしないでね」と言ってくれるので、
やはりこれからもこの主を支えていきたいと心底思うのだった。

主が本腰を入れて出陣をするようになり、仲間が増えた。
短刀では今剣、薬研藤四郎、愛染国俊。
脇差のにっかり青江、打刀の鳴狐と歌仙兼定である。
鍛刀でも山伏国広が来た。

蜻蛉切は歌仙兼定の顔を見てぞわりとした。
もしこの男があちらの歌仙兼定のような男ならばと思ったが、
どうやらそれは杞憂に終わった。
「色の合わせ方がちっとも雅じゃない」と怒ってはいたものの、
それ以上の感情は無さそうだ。
それはそれで不愉快であったが、
主の方は「本当に雅な文化系だ」と笑っていた。

燭台切は厨の戦力が増えたと喜んでいたし、
短刀たちは人数が増えていつもわいわいと楽しそうだ。
鳴狐は何を考えているのか分かりにくいが、
狐殿の食事はどうしたらと尋ねるとお供の方は喜んでくれていた。
青江は陸奥守とともに短刀の世話係に任命されていたが、
うまくやっているようである。

戦力が増えれば出来ることも増える。
近侍の仕事の量は増えたが、
誰かに頼りたくは無かったのでそれに時間を割くようにした。
べつに主の傍で働く事が嫌になった訳ではない。
ただ、無性に苦しく感じるときがあるだけだ。

報告書の清書をしていると、時折主の視線を感じる。
筆に墨を含ませるときにちらりと様子を伺うが、
主は政府からの通知や新聞に目を通しているだけで、
こちらを見ていることは無い。
過剰な自意識に恥じ入るばかりである。

「急で悪いのですが、明日から二泊三日で実家に帰ります。
 留守番をお願いします」

ある日、主が荷物の詰まった鞄を机の上に乗せて、
さも億劫そうに言った。

「留守はお任せください」

「全然心配していません。
 たまの休暇だと思って自由に過ごしてください」

信頼されていることが嬉しい。

「研修でもなく本丸を離れられるのは珍しいですね」

そのときはただ、知りたかったのだ。
だからそう、目的を引き出すように言った。

「そうなのよ、親戚から急に話が来て断りきれなくて」

「ご旅行ですか」

「だったら良かったんですけれどお見合いです。
 でも皆には内緒にしておいてくださいね」

はあ、と主はため息をついて鞄に顔を押し付けたが、
蜻蛉切の方は頭を金槌か何かで殴られたような衝撃を受けた。
こちらの顔を見られていなくて良かった。
主が乗り気ではないようなのがせめてもの救いである。

「……その親戚の方も主のことを心配しておられるのでしょう」

なんとか、それらしい言葉をひねり出す。

「『貴女もいい歳じゃない』って誰が頼んだかっつーの。
 釣書に何書かれたんだろ。
 ああー……気が重い」

主はぐりぐりと鞄に顔をこすり付けていたが、ぴたりと止まった。

「蜻蛉切さん連れて『彼氏です☆』ができたらいいのに。
 こう、見た目のインパクトでまず相手を黙らせられますもん」

できるなら本当にそうしたい。
人の気も知らないで、と少し腹立たしく思ったが、
知られていないことに安堵する。

「自分に可能でしょうか」

「ばっちりです。
 もう本当に現実が憎い」

「では、代わりにこれを」

蜻蛉切は腕に巻いていた数珠を外した。
顔を上げた主の前に差し出す。

「自分はここから出られませんので、これくらいならば」

「え、いいです、そんなつもりじゃなかったんです」

「お傍で侍れず何が近侍かと」

主は押し返そうと蜻蛉切手に数珠を握らせた。
主のほっそりした指が無骨な自分の手に触れる。
手入れのときに触れたときよりも、
その手の柔らかさに息が詰まる。

「そこまでしてくれなくて大丈夫。
 蜻蛉切さんは立派な近侍です。
 その気遣いだけで頑張れそうです。
 とりあえず先方に失礼の無いように乗り切らないと」

立派な近侍はこんな感情を持つことは無い。
自分から触れることが出来ない、触れてはいけない手。
今を逃しては二度と触れることは無いかもしれない。

「――…では、自分の心だけでも」

「それは十分頂いてます」

「形でお示ししたいのです」

「形」

主が何だろうかと楽しそうな顔になる。
やっと笑ってくださった。

「燭台切から聞いたのです」

自分の手に添えられた主の手を取る。
主は何をするのか気づいたらしく、
慌てて「いやいや」と手をひっこめようとするのを、目で制す。
跪くと主は「十分だから」と顔を横にぶんぶんと振った。

「自分の忠義はいつも主のもとに」

手の甲に触れるような口付けを。
本当は唇にそうしたい。
抱きしめてしまいたい。
恋慕の情だと知った瞬間から淡かった欲望の輪郭が鮮明になってしまった。
それでも、知らずに溢れるような事態になるよりもマシなはずである。
だからこれくらい許してもらいたい。
相談に乗ってくれた蜻蛉切が持っているような忠義は自分にはないのだと、
自分に宣告しているような気分だった。

「……できるだけ早く戻ります」

主が手を引いた。
これ以上引き止める理由はなく、
名残惜しく思いながらも手をはなす。
顔を見上げると真っ赤になっていた。
よほど恥ずかしかったのだろうか。

「失礼致しました」

立ち上がると主の顔を見下ろすしかなくなる。
更にうつむいてしまうとこの距離では表情も分からない。

「構いません。
 気を遣わせてすみません。
 遠征頑張ってきてください」

「承知しました」

蜻蛉切はいつもの調子で部屋を出て、
いつもの調子で遠征に出て、
皆がぞろぞろと戻ってきたところで主が明日から不在になることを伝えた。

「自由に過ごして良いとのことだ」

「簡単な任務ならば大丈夫だろうか」

つい先程戦場から戻った長谷部が首を傾げる。
この男に付き合ってしまうと、
おそらく皆が体力と効率の限界を目指して働くことになる。

「休暇と思えと仰せであったから回復に努めるべきであろうな」

「そうか」

主の言葉であることを背景に言うと大人しいことは、
近侍になってすぐに気がついた。今も「主の仰せなら」と頷いている。
翌日には主はこんのすけを伴ってご実家へと戻られた。
内番だけ回しておいて欲しいとのことであったので、
皆が平等に回るよう割り振って貼り出しておく。

休めといわれて休めない性分なのは蜻蛉切も同じなので、
手合わせをしている組に混ぜてもらうよう頼みこむ。
たまたま同田貫と山伏であったので、
互いに遠慮することなく全力で挑むことができたのは幸せだった。

「カカカカ!
 この本丸は穏やかなばかりと思うたが、そうでも無いようだ」

山伏が豪快に笑いながら言った。

「この面子だったからだろ」

同田貫がへっと笑った。

「同田貫殿の刀からは拙僧を強くしたいと思う心が見えたが」

「誰がだ!」

「蜻蛉切殿は誰と戦っておられるのだろうな」

「おいちょっと待て、誰がだ!」

同田貫がしつこく山伏にからんでいくが、
山伏の方はカカカと笑うばかりで相手にしていない。

「自分は……」

山伏に言われなくても、
蜻蛉切はこの手合わせで誰と戦っているのか知っている。
同田貫でも山伏でもない。

「拙僧の知る蜻蛉切に迷う者は少ない。
 お主もお主の道が見えると良いな」

「おい山伏無視すんな!」

「ではもう一戦お願いしよう」

錬度としては同田貫の方が格段に上であるが、
本人の性格の問題でじゃれついているようにしか見えない。
頭に血が上っているようでよかった。

「自分の道とは、いかな道であろうな」

蜻蛉切は苦笑交じりに呟いたが、
言葉をかけた当人である山伏は同田貫と打ち合っていたので、
誰からも何の返事も帰ってこなかった。