風の嫁取
風魔は木の上から北条軍の行軍を眺めていた。
周囲に武田の伏兵は無く、
また罠も無い。
至って順調な行軍である。
(退屈な戦だ……)
あまりに退屈で欠伸が出る。
運んだ手紙の効果は抜群で、上杉はすぐに出兵した。
そのせいで武田は撤退を余儀なくされた。
かなり急いで撤退していったおかげで、
この行軍も順調なものになっている。
氏康は狙い通りと言うかもしれないが、風魔にとっては退屈極まりない。
しかも、退屈な状態が長引きそうなのが更に不満である。
北条軍は上杉への恩返しとして、
武田の一軍を引き付けるための出兵である。
引き付けるのが目的であって、撃破することではない。
更に言うと、今回の風魔の役目は兵士の損耗を回避し、
撤退時の損害をできるかぎり少なくすることである。
「近辺を調べましたが、危険はございません」
部下が報告に戻ってくる。
「引き続き警戒しておけ」
「はっ!!」
契約とはいえ、実に退屈である。
この戦に対する興味が無さ過ぎて、
小田原に置いてきた
のことを考えた。
(うまくやっただろうか)
氏康は
に甘い。
に限らず家族に甘い。
が望めば、おそらくそれを認めるだろう。
問題は
がどれほど真剣に望むか、である。
風魔は
が北条のためになることがしたいと願っていたと知っている。
自分はその“北条のため”という目標に見合う存在か。
の中でどういう評価を得ているのか計ることができる。
そして高評価であるだけ、
はより真剣に氏康に訴えるだろう。
自分は風魔の嫁になりたい、と。
幸いなことに、見通しは明るい。
北条のために風魔を利用するべく嫁になると決意していたようだったし、
接吻しても嫌がる様子は無かった。
『風魔様は私を好いてくれるのですか』
などと聞く程である。
それらしい回答をしておいたが、
そんなことを聞く程度に
は風魔の近くに居る。
随分昔から見慣れさせてきた成果である。
見慣れぬ者は風魔をもっと恐怖する。
その
が少し怖くもある。
中毒性でもあるのか、また触れたいと風魔は思った。
傷跡も、滑らかな肌も、柔らかな唇も、
どれも感触を思い出せるが、本物には劣る。
自分は風。
混沌を齎す魔を孕む風である。
留まらず、通り過ぎるもの。
そう思っていたが、
に関してはどうにも勝手が違うようだ。
捕まえたとばかり思っていたが、捕まえられたのは風魔の方かもしれない。
は氏康の顔を真剣ににらみつけた。
にらみつけでもしなければ、まともに見られなかったからである。
「本気で言ってんのか、それ」
氏康の眉間に皺が寄る。
面倒ごとがあれば大抵そういう顔をしてきた気がする。
そして、怒っているときは十割そうなっている。
「どう自分の成長を信じれば良いのですか?
褒めていただいて、甲斐姫様の副将にしていただいて、
その結果がこの怪我です」
「今回は相手が悪かっただけだ。
真田幸村だぞ?
生きて帰ったんだから儲けたと思っといて良い相手だ。
お前は腕を上げてるって事は俺が保障する」
氏康は
に甘い。
に限らず家族に甘い。
一度は信じたが、もう信じない。
「――…風魔の力は今の北条を支える大きな力です。
おそらく、今後も。
その風魔様が私を妻に、と望んでくださいます。
北条の役に立てる上、望まれて嫁ぐことができるんです。
これ以上のことがあるでしょうか?」
の言葉に氏康は唸った。
まだ納得いかない様子である。
「それともお父様は風魔様以上に私を評価してくださる、
風魔様以上の戦力となる方をご存知なのですか?」
氏康は腕を組んで暫く無言で居たが、
「クソ」と吐き捨ててため息をついた。
「――…お前が良いと言うなら仕方ねぇ」
不満が顔に出ているが、氏康はそう言ってくれたのだった。
「野郎が戦から戻ってくるまでは可愛がらせろよ?
ただでさえちょっと前まで逃げ回ってたんだからな!」
と、ぐしゃぐしゃになるまで頭を撫でられた。
この話は風魔が戦から戻るまで伏せておくように、とも言われた。
風魔はここ最近
を嫁にという話を氏康にもしていたが、
俄かに信じがたいから、という理由である。
そういうことで落ち着いた。
それから、母にも挨拶をした。
医者が呼ばれていたので、医者にも傷を見せた。
こんな短期間でどうやって治したのかと聞かれたが、
特別な手当てといえばあの紫色の薬しか思い浮かばない。
成分も、作り方も不明の怪しげな薬である。
思い当たる節は無いと答えておいた。
早川殿が甲斐姫の無事の帰還を祈るお百度参りをしていたので、
それに付き合うことにした。
甲斐姫のことだからきっと大丈夫という思いと、
幸村がもし再び現れたらという不安が入り混じる。
甲斐姫が無事に、無傷で戻りますようにという願いともうひとつ、
は別のことも祈った。
(風魔様が無事に戻られますように)
甲斐姫に輪をかけて無事に戻りそうだと思いつつも、
万が一が恐ろしくてそう祈った。
が北条家に恩返しができるよすが。
それを失ってしまっては、
どうして良いのかさっぱり分からなくなってしまう。
戦況は時折報告されるが、
事態は硬直しているようで何の変化も無かった。
それが狙いではあるが、早く戻ってきてほしかった。
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