風の嫁取


上杉と武田の何度目か分からない対決は、
にらみ合いと小競り合いを数度繰り返しただけで収束した。
上杉の方も軍を退かざるをえない事由が生じたらしい。
武田はこの大移動だけでかなりの兵糧を消費したらしく、
これ以上の侵攻は不能。
そんなつまらない結果に終わった。

甲斐姫の元にも上杉講和の知らせが入り、
兵士を退かせることとなった。

「もし真田幸村が居たら、
 の分もぎったんぎったんにしてやったのに!」

甲斐姫が心底残念そうに言っていたが、
真田幸村は上杉との戦の方に行っていたので実現は不可能だっただろう。
そう指摘してやろうかと思ったが、やめておいた。
そして、現実にそれをしたとしたら、
氏康の命令を守らなかったことになるという指摘も無駄だろう。

一足先に城に戻り、経過を報告する。
氏康はいつもどおり、とは言いがたい様子でその報告を聞いていた。

「――…以上だ。
 詳細は熊から聞くと良いだろう」

は氏康を丸こめたのか、否か。

「わかった。
 ところで、風魔」

氏康が更に渋面を作る。

「何だ」

「お前、に何してくれたんだ」

氏康のその口ぶりに、が意見を押し通したのだな、と思った。

「事細かに説明しても良いが、聞きたいか?」

風魔は笑った。
別に説明すべきことは傷の手当くらいなものである。
わざわざ口を吸ったときの話などしなくて良いだろう。
そう思っていたが、
氏康は「ぐ」と変な声を出して、そして息を吐いた。

「お前、本当にを嫁にしたいのか」

が望めば我に呉れると言ったのは氏康、お前だろう」

「確かに言った。
 言ったが……お前こそ本当にそれで良いのか?
 俺との契約もかなり特例みたいだが、
 を嫁にしたらもっと面倒になるんじゃねぇのか」

苦虫を噛み潰したような顔の氏康である。
渋面の種類の豊富な男である。

「安心しろ、可愛いが望まぬことはしない」

これでを公認で手中にできる。
そう思うと自然と笑えてくる。

「泣かせるなよ?」

氏康が普通の父親らしいことを言う。

「そうしたいが――…無理だろうな」

「何だと!?」

本気でブチ切れたときの顔をしている。
面白い。

「床で――…」

「それ以上言わんで良い!」

そう怒鳴られた。






は窓から氏康の居室がある棟を眺めていた。
風魔が戻ったらしい。
無事で良かったと思う反面、
氏康が言うように風魔の言葉が冗談であったのではないかと不安に思う。
もしそう言われたら。

(つらい……かもしれない)

今すぐ氏康のところへ特攻して、真意を質したい。
本当なのか、どうなのか。



声がしたので振り返ると、部屋の真ん中に風魔が立っていた。

「ご無事で何よりです」

「夫となる男に随分淡白なのだな」

風魔が笑っている。

「では……」

「氏康の許可を得た」

あの言葉は冗談ではなかったのだ。
信念とは違う行動を取って。
自由に吹き荒れる風ではない存在になってしまう。

「ごめんなさい」

口をついて出たのは、そんな言葉だった。

「何を謝る」

「私は……風魔様を利用しています」

「知っている」

風魔はいつかのようにの前にしゃがんだ。
不思議な、不気味な色の瞳が揺れる。

「うぬが北条の力とすべく我との婚姻を望んだことは知っている。
 しかし、そうであっても我は手に入れたかったのだ。
 うぬは我が承知の上であったと知って、
 婚姻を取りやめるのか?」

大きな手がの頬に触れた。
いつくしむように、優しく。

「いいえ」

「良い返事だ」

三度目の口付けをした。
一度目は風魔の意思を知るためで、
二度目はそれが現実だったことを確認するものだった。
三度目は。
三度目は、も風魔に応えたいと思った。
常からは考えられない行動を取ってまでを望んでくれた風魔を、
は愛することができそうな気がした。






一応忍である風魔との婚姻は、
派手に行われる訳もなくごく少数の関係者のみで静かに行われた。
が風魔の隠れ里に引っ越すという案もあったが、
現在は拠点が小田原にあるということもあり、
小田原で変わりなく過ごしている。

「本当に手前の子か?」

氏康は風魔にぼそりと言った。
の目立つくらいに膨らんだ腹を早川殿が撫でている。

「他の男と遊べるほどの体力を残してやったつもりはない」

「……言わせた俺がド阿呆だったよ」

風魔の返答に氏康は頭をかかえた。

「我はの望みどおり親孝行をさせてやるつもりだ。
 孫はたくさんいた方が良いだろう、氏康?」

「そりゃそうだが……別に宣言しなくて良い!!」

氏康が声を荒げたせいで、と早川殿が驚いたように振り向いた。

「いや、何でもねぇ」

「クク……」

疑るような視線を二人して氏康に向けていたが、
赤子が生まれた後の準備の話に戻っていった。
どうやら甲斐姫もその準備に参戦する予定であるらしい。

「で、あの子どもは腕が伸びたりすんのかよ」

「どうだろうな。
 そう育てるつもりだが」

「俺の目の黒いうちは止めてくれ」

見たくない。
孫が青白い顔で、腕が伸びて、混沌がどうのと言う姿は。

「子がどうであれ、しばらくは北条に手を貸そう」

「ああん?」

「それがの望みだからな」

風魔は音も無く歩いての脇にしゃがんだ。
腹を撫でる。
その行動だけは普通の人らしい行動である。

が望むように、風魔はによってより強固につなぎとめられた。
それで幸せなのかと氏康はを眺めていたが、
は嬉しそうに風魔を見て微笑んでいる。

「めでたしめでたし、ってか?」

氏康にとっては全く目出度くないが、
は笑っているし、
風魔は手を貸すことを宣言してくれたし、
にとってはそうかもしれない、と思い込むことにしたのだった。