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風の嫁取


瓊佳はのろのろと棒切れを杖代わりに部屋の中を歩いていた。
傷は寝ていると疼く程度だが、動くと途端に激しく痛む。
それでも寝てばかりでは鈍るばかりであるし、
少しでも動く準備を整えておきたかった。
風魔の口ぶりではもうすぐ武田は包囲を解くだろうし、
その後ろから上杉の援護として再び出兵する様子だからである。

(ただ寝てるだけなんて)

その一念である。
部屋の中だけでしかうろつかないのは、
それ以外の所をうろつくと老婆が恐ろしいからである。
もう一人の老爺も見かけたが、
彼は瓊佳に話しかけることは無かった。

庭先で犬が遊んでいるが、
その向こうにはよく分からない薬草畑が広がっている。
犬達はそこに近づくことは無い。
随分躾けられているようで、無駄に吼えたりしない。

食事は相変わらずよく分からない粥と漬物と肉である。
独特の風味には慣れたが、美味しいとはやはり思えない。
傷の治りが早いような気がするが、
紫色の薬のおかげなのか食事のおかげなのか、
瓊佳にはよく分からない。
そもそも、これほどの傷を負ったことは初めてである。

余りに痛くなってくると、
縁側に座って棒切れをくるくると手で遊ぶ。
これで即座に強くなれる訳ではないが、
長柄の物を操る感覚を忘れたくないからである。

「わん!」

犬が吼えたので上を見上げると、屋根の上から風魔が降ってきた。

「息災か」

「ええ、まあ」

瓊佳の隣に立ち、手にしていた巾着から何かを出して放り投げた。
犬達はそれを追って一目散に駆けてゆく。
土足で縁側に立つのはどうかと思う。

「そろそろ、お城に戻れるんじゃないですか?」

「うぬの回復次第よ」

慣れた手つきで風魔は腕の傷を見て、そして元に戻した。
瓊佳は胴の傷を見せるのを渋ったが、
やはり無理やりひん剥かれそうになったので我慢して自分で解いた。

「もう少しか」

風魔が傷跡に触れる。

「……もう良いでしょう?」

瓊佳はその手を押し返して、自分でサラシを巻きなおした。

「武田の軍勢が完全に退却してから城へ戻す」

風魔は立ち上がり、犬の方を眺めている。
犬は投げられた何かを必死で食べている。

「もう戻れます」

「クク……待つほうが身のためだぞ」

風魔がおかしそうに笑う。
それでも、その言動が風魔に似つかわしくない。
瓊佳の安全を優先する言葉だからである。

「お父様から何か言われてるんですか?」

瓊佳の問いに風魔は笑うのをやめ、瓊佳を見下ろした。

「うぬの事は一任されている」

「そうではなくて」

よく考えてみると、
風魔が助けてくれることに関しては疑問は無い。
氏康からそういう命令が下っていたに違いないからだ。
しかしこの北条家とは無縁の、
おそらく風魔ゆかりの場所で療養させていることはやはり妙だ。
一任されているのはおそらく追認なだけであって、
秘密の多い忍の一部でも知り得るような状態が続くことに違和感を感じる。

「知りたいか?」

風魔が微笑む。
薄ら寒い笑みである。

「教えてくれるんですか?」

「うぬが望むならな」

風魔がしゃがんだ。
大男なのでしゃがんだところで座る瓊佳よりも目線は高い。

「耳を貸せ」

瓊佳が耳を近づけると、風魔に顔の向きを変えられた。
両頬に風魔の両手がある。
手も随分と大きい。

「痛たたた……」

「うぬを頂戴するための布石よ。
 ずっと以前から打っていた一つだ」

ふわ、と唇にやわらかいものが押し当てられた。
それが風魔の唇であると理解するのを頭が拒む。

「ん……」

逃げたいが、逃げられない。
風魔の唇が冷たい。
その冷たい唇の間から、瓊佳の口に舌がねじ込まれた。

本当に逃げたいのか。
本当に嫌なのか。

相手は命の恩人であるし。
逃げたければ舌を噛んでやれば良いが、それを躊躇った。
風魔は瓊佳相手に深い口付けを続ける。

頭の芯が痺れるような感覚がする。
目の前にあるのはあの青白い顔と、不気味な色の瞳であるのに。
恐ろしくなって目を瞑った。
目を瞑ったところで何ら状況は変わらないが。

漸く解放されたときには頭がぼんやりしていたし、
風魔の腕を力いっぱいつかんでいた。
風魔から逃れることも、風魔を跳ね除けることもできなかった。
体が思うとおりに動かなかった。

「これ以上は止めておいてやろう。
 我も獅子やら熊やらに殺されかねない」

風魔が笑って口元を手の甲でぬぐった。

「うぬが望むなら最後まで続けるが」

そう言われたので瓊佳は首を精一杯横に振った。






氏康は部屋で風魔の報告を待っていた。
煙管の煙を吸って、吐く。
窓の外の夜空には細い月が浮かんでいる。

「戻ったぞ」

何の前触れもなく風魔の声がした。
顔をそちらに向けると、風魔が部屋の真ん中に立っている。

「お疲れさん。
 で、武田は」

「明日中にも殿の将が領地を出る」

「そうか。
 じゃ、そろそろうちも仕掛けるとするか」

上杉が北から攻め入ったために武田は領地に戻っていったのであるが、
攻め入った上杉を援護するために今度はこちらから仕掛けねばならない。
本気で攻める訳ではない。
殿の一軍と、それ以上が北に戻るのを足止めするためである。
甲斐姫が鼻息荒くその役目に名乗りを上げたので、
彼女に任せることにしている。

瓊佳だが」

「いつ頃戻れそうなんだ?」

「戻るだけならもうすぐだ。
 しかし、嫁には出せぬようだな?」

風魔がにやにやと笑う。

「おう。
 でも、急ぐ必要もねぇかと考え直した」

「何故だ」

「小僧もうちの娘も瓊佳の身のこなしが見違えたって言っててな。
 俺も見たが確かに良くなった。
 だから中途半端に嫁ぎ先を探すよりも、
 もっと待った方が良いんじゃねぇかと思ってな」

武人として名をあげれば、
傷跡のひとつやふたつ、ついて回るものである。
今はただの北条家の養女であるが、
名の通った武人がモテるかと問われれば疑問だが、
肩書きがつけばまだマシではないか。
それに、瓊佳が言う北条のためにという目的も達成してもらえる。

「心配は無用だ。
 我が貰おう」

風魔がニヤついている。

「何をだ」

武名を?
もう十分だろうに。

瓊佳を」

風魔の言葉に、氏康は煙管の煙を変に吸い込んでむせた。