風の嫁取


氏康の予想をあまり裏切らない時間で武田は小田原の包囲を解き、
退却を開始した。

「軍神さんのお出ましとありゃあ、
 こんな所で油売ってねぇで自分で出張らねぇとな」

身を乗り出して見送っている甲斐姫の後ろで、
やれやれとため息をつく。
おっこちるぞと注意するほどの阿呆ではないかと思いきや、
幸村を罵って体勢を崩し、慌てて戻っていた。

風魔の方は数日前に城に戻り、
上杉はすぐにでも軍を動かす準備ができていることと、
の体調は良好であるとの報告があった。
今は城のどこかに居ると思われる。

(あいつらが撤退したら、今度はだな)

面倒な話ばかりである。
を嫁にやろうと画策していたが、
大きな傷跡を持つ花嫁が歓迎されるとは考え辛い。
微妙な距離感の家にあって、
戦場で槍を振り回して傷を負うような激戦を繰り広げる嫁をどう思うか。
良い意味で考えられることの方が少ないだろう。
それでも是非にと言ってくれると良いのだが。

そして、この件に関しては愛する妻の関心事でもある。
母であると自任する彼女は、
が幸せに暮らせる婚姻をと氏康に申し入れた。
氏康自身もそのつもりであるが、
彼女の依頼とあらば更に念入りに取り組まねばならないだろう。

ただ、氏康は風魔に対して懸念を抱いている。
命令もしていないのにを救出し、
手当てをして匿っている。
それも、おそらくは隠れ里のようなところである。

(報酬ふっかけられんのか?)

行動に見合った対価をきっちり請求してくる風魔である。
愛娘救出という大任を果たして、
彼はいったいどれだけ請求してくれるのか?
忍隊を抱える身とあらばそれが当然とはいえ、
忠誠心の量れない男である。

とりあえず、次の手を考えなければ。
運よく婿候補にと考えていた人物達が小田原に集結している。
今のうちにちょっと探りを入れるにこしたことはない。
もし良い返事をしてくれたなら、、
一度愛妻に断りを入れておかねばならない。
氏康は後片付けを氏政に押し付けて、
早々に次の段取りにかかったのだった。





早川殿は氏康が家臣と話しているところを見た。
それだけであれば普通のことなので別に気に留めたりしないが、
その話題が問題であった。
直接的な質問ではなかったが、
を嫁にどうかという話だったからである。

を嫁がせるおつもりなのかしら?)

呼び出したりして話をした訳でもなく、
世間話のひとつのような感じであったので、
話自体が公式な申し入れなどではないと氏康自身が言っていた。
それでもなんとなく気になったのでそれとなくついて回ると、
同じような会話を数人と交わしていたのだった。

ただ、返事はあまりよろしくなかったようである。

「北条家の姫君を伴侶にというお話は光栄ですが」

という枕詞を全員から聞いた。
ですが、なのだ。

は此度の戦で深手を負って、傷跡も残る。
氏康はそれを隠さなかった。
それもあってか、皆尻込みしたようにも見えた。

主家の養子とはいえ姫君を嫁に迎えたら、
それ相応の対応で迎えなければならない。
その努力ができる相手かどうかと考えて、
政略結婚と割り切るにしては相手が悪すぎるとの判断のようだ。

氏康が「ま、そうだろうな」と返していたので、
それは予想の範囲内の回答であったようである。

「お父様、をお嫁に出すのですか?」

何人かに声をかけて、頭をかいていた父に早川殿は声をかけた。

「聞いてたのか?」

「はい」

早川殿が返事をすると、氏康はため息をついた。

「そのつもりだったが、作戦練りなおさねぇとな。
 もっと親しい家の奴に年頃の男は居たっけか?」

「ええと……」

言われて考えてみたが、ぱっとは思いつかない。

「氏政や三郎のお嫁さんじゃ駄目なのかしら」

が嫌がるだろうな」

「氏政とは仲良くしてくれてたと思ったけれど……」

そう言うと、氏康は苦笑した。

「そうじゃねぇ。
 は北条のためになることがしたいって言ってんだ。
 早めに嫁にでも出さねぇと、人質に志願でもされたら困る。
 あいつぁ捨て身だからな。
 だからそこそこの家に嫁がせたかったんだが……」

氏康の言葉に、早川殿は声をかけていた顔ぶれを思い出して納得した。

「思わしくなかったのね?」

「そういうこった」

はあ、と氏康はもう一度ため息をついた。

「うちの奴らの嫁になってくれりゃ話は早ぇんだが、
 それじゃ『お家のためになりません』とか言われそうでよ。
 カミさんも幸せに嫁げるようにとか言うし」

「私もそうお願いします」

早川殿が微笑むと、氏康は渋い顔になった。
傷跡のせいもあってただでさえ怖い顔が、さらに怖くなる。

「俺もそうしてぇのは山々なんだがな。
 何にせよ、が納得できる道がありゃ良いんだ」

きっぱりと断言した割りに、
珍しく思っていることが顔に出ている氏康である。

「でも……」

早川殿が言うと、氏康は先を促した。

「甲斐も言っていたのだけれど、
 の槍の腕前がすごく上がっていたみたいなの。
 お父様は何か知らない?」

氏康もそれを知っていたらしい顔をしている。

「それ以前にも、兵士の調練も熱心にしてくれていたわ。
 別にそんなに急がなくたって、
 は北条家のためにずっと努力してくれていたわ」

氏康は腕を組んだ。

「――…武士として、な。
 たしかにここの所随分腕を上げた。
 だが、がそれを望むかどうかだ」

以前と話し合うようにお願いしたが、
そのとき二人はどんな会話をしたのだろうかと思ったが、
氏康はそのことには触れずに去ってしまった。