風の嫁取


「絶対、が帰る場所を守ってみせるんだから!」

甲斐姫は城門の上で拳を力強く握り締めた。
数日前には悔しさと自責の念から同じ場所で同じように拳を握ったが、
今は違う。
が自分を守ってくれた分、
自分が働かねばと気合を入れなおした。

「うん、頑張ろうね!」

早川殿も珍しく険しい顔をして、敵をにらみ据えている。
武田軍の士気は高くなく、攻め手も苛烈とは言いがたい。
戦上手と評判の武田信玄が率いているにしては、
どうにも妙な具合にしか見えない。
それを氏康に尋ねてみると、にやりと笑って答えてくれた。

「腹ぁ減らしてるんだよ」

そんな簡単な話なのかと思ったが、
どうやら風魔の忍隊が武田軍の物資ばかりを集中的に襲撃し、
本当に食料が不足しているらしい。
それに加えて、数日前に氏康の書簡を携えて風魔が越後へ発った。
どういう文面なのかは不明だが、
氏康曰く「軍神を動かせる方法があんだよ」とのことである。

軍神が動くまで凌ぎ切る。
それが今回の戦の勝利である。

そういった目標がはっきりと設定されていたので、
挑発に乗ってはいけないという厳命が下されている。
自分ひとりの力で勝てるかどうかは不透明であるが、
そんな命令があっても真田幸村に挑みたいと思った。

「……そういえば、の動きが見違えるようだったんだけど。
 何かすごい特訓なんかしてたのかな」

横に立っていた早川殿がくす、と笑った。

はずっと兵士の相手をしていたのよ?」

「でも姫様、それにしても……」

精強な武田の兵を軽くいなし、
味方の兵士をじりじりと退却させつつ甲斐姫の援護をする。
そんな芸当が通り一遍の稽古で可能なのだろうか?

「じゃあ、戻ってきたら聞かないと。
 が帰ってきたときの楽しみがひとつ増えた」

そう。
今はがやられた分をやり返すのではなく、
が帰ってこられる場所を守るための戦いである。

「そうですね、だから……」

「「ぜ~~~~ったい負けない!」」

二人で声を合わせて、頷きあった。
今日も門の前で挑発を繰り返す真田幸村の姿が見えたが、
甲斐姫は門の上から舌を出して挑発し返してやった。






風魔に会ってから数日で、の傷口の抜糸が行われた。
どうやらずっと世話をしてくれていたのはその家の老夫婦で、
やけに無表情な老婆が鮮やかな手並みを見せてくれたのだった。

「ありがとうございます」

痛みを耐えて歯を食いしばった直後だったので、
多少ぎこちなかったがは礼を述べた。
老婆はちら、とを見て「いいえ」と短く答えた。

「頭領が連れてこられたお客人でございます故」

老婆はほんとうにそれだけしか言わなかった。
慣れた手つきでにあの紫色の膏薬を塗りたくり、
サラシを巻きなおしてくれた。

「あの……」

は声をかけようとしたが、老婆はそれを手で制した。

「ここは薬草園にございます。
 婆と爺しかおりませぬ。
 あまり詮索してくださいますな。
 頭領のお客人を肥えにしとうございません」

穏やかな口調でひどく物騒なことを言って、
老婆は汚れ物を抱えて部屋を出て行った。
残されたは何もすることが無いので、
ぼんやりと部屋の外を眺めていた。
風魔が眺めていた犬が今もじゃれあっている。

(……どうして助けてくれたのか)

遅れたとも言っていたから、
もっと早くに助勢してくれる予定だったのか?
あの風魔が。
氏康が命じたに違いない。
自分はきっと大変なことになるだろうから、と。

そのおかげで生き延びているのだから、
自分の弱さを恥じ入るばかりである。
早く城に戻りたいが、今はまだ足手まといのごく潰しでしかない。
戻るには早く回復しなければならない。

そう自分に言い聞かせて、
はその日の夕食を無理やり腹に流し込んだ。
謎の葉が浮かんだ粥と、謎の肉をやわらかく煮付けたもの、
謎の野菜の漬物である。
美味しいか美味しくないかと問われると、
全て独特の薬草の風味がしてあまり美味しくない。





風魔が越後からの帰りに小屋に寄ると、
は棒切れを持って縁側に座っていた。
休憩中であるらしく、水差しが横に置いてある。

「元気そうだな」

屋根の上から声をかけると、は驚いたようにこちらを見上げた。

「どこから現れるんですか!?」

「どこでも良いだろう」

下りて、隣に立つ。
庭先で犬がじゃれあっている。
使えるようになるにはまだまだかかりそうだ。

「うぬには休めと言っておいたはずだが」

を見下ろすと、視線を合わせてはくれなかった。

「いえ、十分休んでおります」

「ほう?
 ではその棒切れは何に使っているのだ」

「……これは杖です」

どうせ気がはやって軽い稽古をしていたのだろう。
別に咎めはしない。
動かないと鈍るのは分かる。

「傷口を見せてみろ」

そう言うと、は腕のサラシを解いた。
傷口はあらかたふさがり、
抜糸した部分はもう少しといったところである。

「大丈夫でしょう?」

自慢げにサラシを巻きなおすである。

「で、もうひとつの傷は」

「……同じですから」

そうごねて見せようとしないので、
その場でひん剥いて状態を確認してやった。
血も油もいうほど滲んでもおらず、傷口も開いていない。
本当に軽く運動を試みただけなのだろう。

「こちらも良好だな」

風魔はそれで満足だったが、はぷるぷると震えている。
見れば、は両手で顔を覆っていた。

「どうした」

「恥ずかしいに決まってるでしょう!!
 はなして下さい!!」

がもぞもぞと身をよじる。
まだ痛いらしく普通には動けないらしい。

「クク……そう焦らずとも早晩武田は退く」

手を離してやると、は慌てて服を直した。

「上杉が動くんですか」

「うぬが上杉に加勢できるのか、城でお留守番なのか。
 楽しみよな」

風魔がそう言うと、は分かりやすく顔をしかめた。