風の嫁取
氏康は城門の上から駆けてくる騎影を見つめていた。
遠眼鏡で兵士の数を確認する。
「なんだ、ありゃ?」
先頭を走る甲斐姫の顔がひどい。
「開門、開門!」と兵士が叫び、少し軋みながら城門が細く開く。
(
はどこだ?)
氏康は遠眼鏡を更に覗く。
兵士達の列がかなり近づき、
裸眼でもその鎧の区別がつく程近くなった。
目をこらす。
(
は)
腕を上げていたし、本人も望んでいたから甲斐姫につけた。
手柄を上げるような作戦でもないし、
とりあえず度胸がつけばと思ったのだが。
騎兵達が速度を落とさず一列で城門をすり抜けてゆく。
氏康はその馬を、鎧を、顔を見る。
最初の一団が城門の中に全員駆け込んだ。
遠くにはまた別の集団が全力で駆けてくるのが見える。
おそらくそれは三郎の軍である。
(そちらに居るのか?)
もう一度遠眼鏡を覗く。
兵士達が門に近づき、すり抜けていく。
「お館様……ごめんなさい……」
甲斐姫の声に振り返ると、甲斐姫がぼろぼろと涙を流していた。
「どうした?」
「
が……私のせいで真田幸村の所に残ることに……」
の姿が無い。
横から兵士が進み出て氏康の前に土下座した。
「私が甲斐姫様が助けに戻られるのを妨害致しました。
処罰は私に」
怒れる訳が無い。
何をおいても逃げろと言ったのは氏康である。
己の力量も省みず助けようとしたのは
なのだ。
三郎を呼び出して
を見ていないか確認するが、
彼はそもそも
が幸村と打ち合っているところを見ていなかった。
「父上、城門は」
渋い顔の氏政が言う。
「――…閉門だ」
は戻る見込みが無い。
氏康は兵士に門を閉めるよう指示を出した。
再び軋みながら門扉が動く。
「小僧、手前ぇは自分の仕事をしただけだから気にすんな。
それから人の上に立つ奴が、
これから本腰入れて戦に挑むっつーときにそんな顔するんじゃ無ぇ」
甲斐姫が口を引き結ぶ。
怒りをぶつけたいが、言葉にならないというところか。
せっかく労ってやったのに怒っているらしい。
「何のために
が残ったのか考えるんだな」
氏康の言葉に、甲斐姫は震えるほど強く拳を握り締めてうつむいた。
それから暫くして、
予想より少し遅れて武田軍は小田原を包囲した。
兵力はかなり充実しているように見えるが、
あまり本気で攻略しにきた様子でもない。
が人質に取られてはいないかと氏康は期待してみたが、
そんな交渉に出てくる様子は全く無い。
篭城は長丁場になる。
陣容を確かめて、氏康は一旦休むことにした。
指揮は氏政に預けて自分は部屋に引っ込む。
文机を蹴り飛ばしたい衝動にかられたが、
それで解決することはひとつもない。
舌打ちをして、部屋の真ん中に座り込む。
とにかく冷静にならねばならない。
怒りに任せて何かをすると碌なことにならない。
ゆっくりと息を吐く。
「氏康」
声に顔を上げると、目の前に風魔が立っていた。
「何だ」
「武田の糧食の一割ほど燃やしてやったぞ。
予定より少ないが」
「引き続き頼む。
悪いが、今はちょっと一人にしてくれねぇか」
自分に対して怒りが収まらないのだ。
しかし、風魔は「それから」と氏康の言葉を無視して続けた。
「
を回収して我らの協力者に預けてきた」
「は?
首は?」
「首?
今は胴についているが、首にしてきた方が良かったか?」
「馬鹿言うんじゃねぇ!」
氏康が怒鳴ると、風魔は「クク…」といつもどおりに笑った。
どっと疲れた。
「……説明しやがれド阿呆」
胡坐をかいて頬杖をつく。
しっかりきっちり話を聞かねば気がすまない。
「手当てはしてやったが、当座は戦力にはならぬ。
場所は言えぬが普通の軍ならわざわざ通らぬような辺鄙な所に居る。
介抱する人手も薬もあるから安心しろ」
ため息が出る。
無事で良かった。
安堵すると疲労を感じるからいけない。
疲労を感じると、だんだん風魔に対して腹が立ってきた。
もっと早く報せを出してくれていたら、
やきもきせずに済んだのに。
「傷は痕になる」
風魔のその言葉で、氏康は緩みかけた気がもう一度張り詰めた。
そういえば状態を聞き忘れている。
相当頭の中がとっちらかっているようだ。
「どんな傷だったんだ」
「大きな傷は肩から脇腹にかけてひとつ、前腕にひとつ。
縫い合わせておいたが、特に腕は目立つだろう」
風魔が手首から肘のあたりまでを指でなぞった。
その部分に傷があるならば、確かに袖口から覗くだろう。
もうひとつの傷は普段は隠れているだろうが、
嫁にやるという道筋は厳しくなった。
「報告は以上だ」と、風魔は姿を消した。
氏康はだらしなく座りなおして、風魔の報告を反芻した。
は生きている。
深手は負ったが、また戻ってこられる。
甲斐姫の口ぶりから最悪の想像しかしていなかったが、
そこから考えると劇的に良い状態であると言える。
薬と言ったが、おそらく忍隊が使っている特製の薬だろう。
それを使ったせいで腕が伸びたり、
青白くなったりしたらどうしてくれる。
そんな冗談が頭に浮かぶ程度に落ち着いたのだと、
氏康は今度こそ脱力して寝転んだのだった。
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