風の嫁取


武田軍が侵攻してくるという情報を得て、
最終的には篭城することになろうという結論に至ったが、
その前に一度叩いておこうという話になった。
風魔の忍達からもたらされる情報によって、
ある程度の進軍の道筋が見えてきたからである。

「篭城戦になりゃ、民にも負担がかかる。
 できるだけ戦は短ぇ方が良いに決まってらぁ」

と氏康は言っていた。
その作戦とは、敵を罠のある場所までおびき寄せ、
罠の発動後は一目散に小田原まで逃げる。
繰り返し釣れるとは思えないので、
最初の一発だけしかない奇策である。

「絶対逃げ切るわよ!!」

甲斐姫が鼻息荒く拳を握り締めた。
彼女の闘魂が伝わるのか、馬も心持ち凛々しい顔つきである。
このまま街道の先に居る武田軍まで伝わりそうなくらいに、
気合が漲っている。

「足手まといにならないよう頑張ります」

の言葉に、甲斐姫が勢い良く振り向いた。

「私達の役目はここで相手を倒すんじゃなくて、
 相手を釣り込むことよ。
 そんでもって、一番重要なのは小田原まで生きて帰ること。
 当たれば儲け物ってお館様も言ってたし、
 そんなんだから危険なほど粘らなくても良いって」

軍議の席で、そういえばそんなことも言っていた。
行軍の列が伸びれば、忍の活躍できる場面も増えるからと。

「そうでしたね」

「そうなのよ。
 だから私達はできる限り挑発して、逃げる!」

握り締めた拳を前に突き出す甲斐姫である。
その動作では、相手に攻撃を繰り出していそうな気配である。

「逃げる」

「そう、逃げるのよ!」

甲斐姫の気合の入り方がすごいからなのか、
それともそれが普通なのか、
彼女の軍の士気は異様に高い。

「頑張りましょう」

も槍を握り締めた。
馬の鬣をなでてやる。
ここに居る者は皆、選りすぐりの駿馬を与えられている。
きっと逃げ切れるはずだ。






「私の相手になってくれんのはどいつ?」

甲斐姫は武田軍の前で啖呵を切った。
できれば真田兄弟あたりは避けてもらいたいが、
こちらから選べるものでもない。
一応忍の事前の調べでは当たる予定ではない。

副将についてきているのはである。
茶会には欠席していたが、
それ以後はまた徐々に昔にもどりつつある。
昔と違うところといえば、
あまり会わない間に槍の腕前はかなり成長していた。
心強い味方である。

「武田軍、真田幸村!
 お相手願おう!!」

武田の兵士達が道を作って、奥から運悪く真田の弟が出てきた。
引き締まった顔つき、声に篭る気合、並ぶ者のない槍の腕前。
味方だったら惚れる男ぶりであるが、残念なことに彼は敵である。

何合か打ち合う。
さすがに強いのであまり長く相手にはしたくない。
待っていれば誰か敵の加勢がないかとも思ったが、
ここで切り伏せられては元も子もない。

「きゃああっ!!
 やっぱり日の本一の侍の相手なんか、私には無理よっ!!」

幸村の槍をはじき返して、馬首を転じる。
一瞬彼がきょとんとしていたのが見えた気がしたが、気のせいだろう。
馬の腹を蹴って走る。

「ま、待て!!」

幸村が追ってくる。
勢いづいた彼の部下も続く。
ときおり打ち合いに応じ、はじき返してまた逃げる。

がじりじりと兵士達を後退させつつ、
上手く他の兵士の相手もしてくれている。
こんなに強かったかしらとも思ったが、
幸村の相手に忙しくてあまり見ることができないのが悔しい。
北条の兵士の列に甲斐姫が追いつきそうな頃合で、
皆一斉に全力で後退を始める。

「待て、幸村!!」

真田兄弟の兄、信之の声が聞こえたような気がするがもう遅い。

「かかれ!!!」

森から一斉に矢が射掛けられた。
幸村はそれを槍で叩き落していくが、
誰もが彼と同程度の力量を持つ訳ではない。

「ぐぬ……!」

してやったり!

甲斐姫は馬の腹を更に蹴る。
もう振り返っている場合ではない。
矢の雨を降らせた三郎も、ある程度で止めて逃げる手はずである。
もうちょっと先では忍隊が横合いから物資を運ぶ部隊を急襲し、
即時離脱する予定である。

「逃がす……ものかっ!!!」

背後で絶叫が聞こえた。

「甲斐姫様、お早く」

少し前を行くが振り返る。

「うん、この子も頑張ってるんだけど……」

馬は頑張っている。
甲斐姫の馬は特に足の速いのを選んだのだが、
幸村との打ち合いが響いているのだろうか?

「うおおおお!!!」

声が近づいてくる。
予想以上に近い。
もう一度、より強く馬の腹を蹴る。

「甲斐姫様、頭を下げて!!!」

が叫ぶ。
甲斐姫は反射的に、言われたとおりに頭を下げた。
その頭上を槍が横なぎに払われ、
金属同士がぶつかり合う音がした。
の馬が馬首を返す。

!!」

振り返る。
幸村との槍がぶつかり合う。
完全にが劣勢だ。
戻りたいが、馬は更に加速した。

「甲斐姫様!!
 振り返ってはなりません!!」

兵士が悲壮な声を上げながら甲斐姫の馬を前に引いた。

「はなしなさいよ!」

「なりません!」

自分達の役目は、生きて小田原まで帰ること。
今の兵数でまともに武田軍の相手はしていられない。

「何やってんのよ、あたし……!!」

手綱を持つ手が震える。
涙が出そうだが、まだ後ろには三郎が居る。
彼が加勢してくれれば、多勢に無勢でも逃げられるはずだ。
その可能性がいくら低くとも、そう願わずには居れない。

「馬鹿!!!」

甲斐姫は叫んだ。