風の嫁取


氏康に呼び出された翌日、
はのろのろと廊下を歩いていた。

『俺の娘の一人として居てほしい』

氏康の言葉を反芻する。

(お願いされてしまった……)

自分が頑なに主張したせいで。
自然とため息が漏れた。

しかしそう言われても、
暫く前からどうにかしたいと思っていた訳で、
すぐにホイホイと元に戻れるような心境でもない。
事実、顔も覚えていない実の親が親だと言われてもピンとこない。
の中で両親は氏康夫妻である。

(どうしよう)

……!」

名前を呼ばれて顔を上げると、廊下の向こうに早川殿が立っていた。
立っていたというか、に向かって走ってくる。
一体何だというのか。

「早川殿!?」

がし、と抱きしめられた。
初動が遅れたせいで、逃げることができなかった。
細身の早川殿であるが、甲斐姫と居るからなのか意外に力強い。

「お父様から聞いたわ。
 そんなに悩んでいたなんて……気がつかなくてごめんなさい」

昨日の今日で、いつそんな暇があったのか。

「落ち着いてください」

「姉としては頼りないかもしれないけれど」

早川殿がやっと腕の力を弱めてくれた。
正面から大きな目を見ると、少し涙がたまっているように見える。

「あなたは私の大事な妹なの」

心配をかけていたのだなあ、と胸が締め付けられるように思った。

「……ご心配をおかけして申し訳ありません」

「私の方こそ、気づいてあげられなくてごめんね」

早川殿がやっと微笑んでくれた。
彼女の笑みには、人の心をやわらかくする力がある。
もつられて笑みを浮かべた。

その日は一日、ずっとそんな調子だった。
兄弟皆から抱擁を受けたり手を握られたりした。
それ自体も少し照れくさかったが、
そこまで心配をかけていたのだと思うと恥ずかしかった。
それと同時に、
これほどを思ってくれる家族のために、
やはり何か役に立ちたいという思いを新たにしたのだった。




「呼んだか、氏康」

どこからとも無く部屋の中に風魔が現れた。
呼んでいないときに現れるときは無く、
ほとんど意味の無い言葉である。

「悪いが、ここに書いてある家のことを調べてくれ」

書付を渡すと、風魔は一通り目を通して笑った。
いつも笑っているような顔をしているが、
いつもより嬉しそうな顔にも見える。

「反乱の萌芽か?」

書いてあるのは敵ではなく味方の名前である。
それも、最近目だった働きをした家ばかりである。

「いや、そういう話じゃ無ぇ。
 娘の嫁ぎ先に良いか知りたい」

珍しく「承知した」とすぐに言わない。
風魔が望む混沌とは違う方向でがっかりさせたのだろうか。

か?」

「お前、昨日の話聞いてたろ」

心配していた早川殿にはおおまかに伝えてある。
おそらく小田原に居る子ども達にはすぐ伝わったろう。
だが、風魔には伝えていない。
突然縁談の準備をするのも妙な話なので、
察するあたり聞いていたに違いない。

「――…確かに主の娘が嫁ともなれば可愛がってくれような。
 覚えも目出度き家ともなれば、
 もうぬの意を受けて嫁ぐと思いやすかろう」

風魔が腕を組んで頷いた。
氏康の問いは無視である。
まあ、答えははっきりしているが。

「何だ、妙につっかかるな?」

「他意はない」

「あとそれから」

消えようとした風魔を引き止める。

「お前、に何してんだ?」

弱いと言われたと言っていた。
それにあの慣れた担ぎ方。
後から考えると、
到着したときも無造作に床に落とされたようにも見えたが、
は床に叩きつけられた訳でもなく一応はきちんと着地した。
風魔の肩の高さから落とされれば、男でもうめき声のひとつは上げる。

「我の相手をするという名目で稽古をつけている。
 戦場から生きて帰れる程度にな」

はぐらかされるかと思いきや、案外すんなりと風魔は答えた。

「契約に無ぇこともするんだな」

「護衛しろとの命令を減らすためだ。
 うぬもが戦に出る危うさを知らぬ訳ではあるまい」

氏康は顔をしかめた。

「ああ……昨日やっと知ったな」

「人を殺してまで得たい何かが無いままに戦場に立つ者は脆い」

「手前ぇ、かなり前から知ってやがったな?」

「クク……」

風魔は笑いながら姿を消した。

なんとなく敗北感を感じた。
自分は父親だと言っておきながら、
風魔の方がの意図を見抜けていたとは。
確かに風魔をの護衛につけることが多かった。
特に理由は無く、なんとなくである。

多少腑に落ちないが、とりあえず今できることは終了である。
風魔の言うとおり家臣の嫁になれば状況を把握しやすいし、
苦境に放り込むようなことにはならないだろう。
一番良いのは己で己の歩む道を決めることではあるが、
そのまま伝えると人質になると言われかねない。
穏便に済む方法がこれしか思い浮かばなかった。

(子育ては難しいなぁ、おい)

世話の焼きすぎかもしれないとも思いつつ、
氏康は煙管を手で弄びながら、
目を通すべき書類を読む作業に戻ったのだった。