風の嫁取


は水を浴びたあと、
浴衣をだらしなく着て自分の部屋で寝転がっていた。
日は傾き始め、日中よりは幾分か涼しい。
団扇で扇ぐと蚊遣りの匂いがふわりと香った。

風魔の相手をしたのが余計だったのかいつもより疲れている。
疲労に任せて少し眠った。

弱い。

そうはっきり言われた。
風魔の馬鹿野郎。
言われなくても自分が弱いことくらい知っている。
敵を殺すことに躊躇することも知っている。
戦場に出る覚悟が未だにできていないことくらい、
自分が一番知っている。
それでも聞いてしまう小物の心を察してくれ。

知っているのに、風魔に再度弱いと告げられる夢を見た。
嗤っている。
悪夢である。



やけに本物らしい声を聞いたような気がしてまぶたを持ち上げると、
と天井の間に風魔の顔があった。
一瞬悪夢の続きかと思ったが、どうやら本物らしい。

「何ですか」

風魔の顔からは疲労が感じられない。
の相手など児戯に等しいのだろう。

「氏康に連れてこいと言われている」

すぐに行くと答えかけたが、
浴衣で、しかもだらしなく着ていることを思い出した。
寝ぼけているらしい。

「支度しますから出て行ってください」

「すぐに連れて来いと言われている」

風魔の口の端がにぃ、とつりあがった。
嫌だと言うよりも早く、風魔の手が文字通り伸びての帯をつかんだ。
そのまま肩に担ぐと、廊下ではなく窓から外へと出る。

「え、ちょっと、嘘!?」

「最短の道で行く」

暴れると余計危ないことくらい一目瞭然である。
とりあえず舌をかまないように歯を食いしばる。
山道を担がれて上るうちに身についた習慣である。
風魔は屋根の上を駆け、跳躍し、
馬鹿みたいな経路で城の中を駆け抜けた。






「連れてきたぞ」

と風魔が窓から入ってきた。
無造作に荷物を降ろすように、肩からが落ちる。

「おう、悪ぃな」

氏康がそう返事するが早いか、風魔の姿が掻き消えた。
残されたがのろのろと起き上がった姿を見て、氏康はぎょっとした。

「……えらい格好だな」

一応背を向ける。

「支度するって言ったんですけどね」

が慌てて襟を直す気配がした。

「……何か御用でしょうか」

「そっち向いて良いんだな」と念を押すと、は「はい」と返事した。
それでようやくまともに対面したのだった。

「言わなきゃなんねぇ事があるのはお前の方だろう?」

氏康はの目を見た。
視線は逸らさない。
が視線を落とし、
暫くさ迷わせて再び目が合い、
そして再度視線を落として観念したように口を開いた。

「姉上は怒っておられましたか?」

「あいつが怒る訳ねぇだろ。
 悲しんでは居るみてぇだがな」

はそこから黙りこくった。
暫く待ってみたが、話し出す気配は無い。

「何か悩みでもあんのか」

ともすれば脅しているようにもなりかねない自覚があるので、
細心の注意を払って優しく尋ねる。

「私は……その、恩返しがしたくって」

「恩返し?
 親孝行は十二分にしてもらってるぜ?」

がよろよろと首を振る。

「私は養子です。
 それなのにお姉様と代わらぬように育てて頂きました。
 そのご恩に何とか報いたいのです。
 今のままでは全然足りません」

養子だから早川殿とは並べないと。
が真面目すぎて笑ってしまう。
なら何の気負いもなく並んでいる甲斐姫はどうなるのだ。
笑うところではないので、努めて無表情を貫く。

「甲斐姫様のように武働きができれば良かったのですが、
 風魔にも馬鹿にされる始末ですし」

「馬鹿にされたのか」

「あ、いえ、馬鹿にされてはないです。
 現実を突きつけられただけで」

あのオバケは何をしてくれたのか。

「お姉様のように皆を励ますようなこともできませんし、
 お養母様のように城の中をひとつにまとめることもできませんし、
 途方にくれているところなのです」

肩を落とすは、言葉通り本当に途方にくれているようだ。

「必要無ぇ。
 お前は好きなように生きれば良いんだ。
 俺の娘としてな」

「それでは自分が許せぬのです」

誰を見てこんなに真面目に頑固に育ったのか。
真面目部分は早川殿か。

「何かできることがしたいのです。
 今の立場でできることでは、私の能力では不可能です。
 人質を誰か出すことになれば、私で良ければ参ります。
 政略的に必要ならば、私で良ければ嫁に参ります。
 北条のお家の役に立てるなら――…」

「やめろ、もういい、分かった」

氏康は頭をがしがしと掻いた。
はまだ何か言いたげだったが、口をつぐんだ。

「お前の考えは分かった。
 だが俺はお前の父親だし、
 皆がお前を家族の一人だと思っている。
 家族の一人だけが犠牲になるようなことはしたく無ぇ。
 それは分かってくれ」

「……はい」

は泣きそうな顔で頷いた。
役に立つという目標が達成できないまま、
北条氏康の娘としてただそこに居ることを良しとできないのだろう。
優しくて真面目で頑固だから。

「暫く時間をくれねぇか?
 お前も納得できる方法を考える。
 だから俺の娘の一人として居てほしい。
 娘として甘えて欲しいっつう親心だ。
 そう理解してくれ」

は無言で頷いた。

さすがに浴衣で帰す訳にもいかないので風魔を呼んで、
「人目につかないように」と言い含めて部屋まで送らせた。
風魔が手馴れた様子でを担ぐのはまだ納得できるが、
の方も慣れた様子で風魔に担がれるのが謎である。
後でその点についても追求しなければならない気がした。