風の嫁取
兵士の稽古が終わった後、
は風魔と山の上に居た。
手合わせをしているところを見られたくないという風魔の希望であり、
それ以外の、たとえば山登りが好きだとかいう理由ではない。
一応気を使ってくれているのか、
毎回山の上までは風魔が有無を言わさず担いで運んでくれる。
何度かの敗北が決定し、
練習用の槍がへし折られたところで手合わせは終了となった。
手ぬぐいで汗を拭き、
水筒の水を喉へ流し込むと、
温んでいるはずなのに冷たく感じられた。
「これもやろう」
風魔からもう一本水筒を渡された。
「ご自分の分は」
「我には不要だ」
見れば汗ひとつかいていない。
は先程ぬぐったところなのに、また汗が滴り落ちてくる。
ならばこの水筒はおそらく自分のために用意されたものだ。
「夏場は薄い塩水の方が良い」
「塩水なのですか」
「今のうぬでは味が分からぬだろうな」
風魔の水筒の水を少し舐めてみる。
塩っ辛いと言うには薄すぎる。
確かに手合わせの後はいつも死に体ではあるのだが、
風魔に気遣われるほどだというのも悲しい。
は木陰に入って座り込んで、枝葉を見上げた。
風魔はその木の枝に乗り、城を見下ろしている。
「教えてください」
「何だ」
「私は弱いですよね」
「そうだな」
「戦でお館様のお役に立てない程でしょうか」
風魔はちら、と
を見て笑った。
「熊と比べているのか」
「甲斐姫様はそりゃあお強いですから……」
「ククク……うぬはあれを熊と思っているのだな」
手で口元を隠しているが、
笑っているのは全く隠しきれて居ない。
「……もう良いです」
「越えるべき壁が知りたければ鏡を見るのだな」
自分だということか。
そんな禅問答が聞きたい訳ではない。
「そこまで教えろとお館様の指示ですか?」
「戯れよ。
そうさな、熊に勝てる人を見てみたくなったのだ」
また風魔が笑っている。
冗談なのだろう。
は会話をする気が失せ、
汗が引くまで無言でやり過ごすことに決めた。
「
なぁ……」
ぷかり、と氏康は煙草の煙を吐いた。
妙に遜るようになったことには気づいていたが、
早川殿が気にかけて手を尽くしていたのは知っている。
余計なことをしないようにと見守っていたが、
あまり功を奏していないようである。
「どうしたら良いのか分からなくって」
親の贔屓目かもしれないが、早川殿が可愛い顔に憂いを浮かべて言う。
確かに気になってはいた。
だが、男親だから敬遠されているのかもしれないとも思っていた。
もしくは親離れか、とも。
「一回話してみるか」
の両親は死亡している。
母は病がちで、
を産んでから暫くして死んだ。
父は氏康と昔から付き合いのある下級武士であった。
友と呼んでも良い。
その男もまた病を得て、
まだ幼い
を頼める人間が居ないと死の淵で言ったから引き取った。
引き取るからには己の娘として育ててきたつもりである。
「お願いします」
早川殿も母親ではなく自分に頼んできたということは、
優しく諭す方法を諦めたということだろう。
二人からの説得をかわし続けるとは中々の強者である。
の頑固なところは一体誰に似てしまったのか。
「ま、何とかならぁ」
そう口では言ってみたものの、
最近はほとんど
と会話もしていない。
やはり自分も避けられている。
きちんと話をするには、
逃げられないような場に連れてくるに限る。
「おい、風魔」
を今すぐこの場に連れて来い。
そう命令するつもりで声をかけたが、
珍しくあのオバケはすぐには姿を見せなかった。
「珍しいですね?」
早川殿が困ったような顔で小首を傾げる。
「どこ行きやがったんだあの野郎は……」
どうでも良い用件のとき、
具体的には争乱とは無関係の用件のとき、
それを知っているかのように風魔は遅参する。
一応は来る。
今回もそれに類するものと察知しているのかもしれない。
「お父様にお任せしますね」
早川殿もそれを察したのか、苦笑している。
「ああ、分かった。
今すぐは無理そうだが、近いうちになんとかする」
氏康がため息とともにそう言うと、
早川殿は部屋を出て行った。
もう一度煙草の煙を吸い込み、吐き出す。
「呼んでまいります」
窓の外から声が聞こえた。
どうやら忍がそこに居るらしい。
そして風魔は城に居ないらしい。
今は何の用件も頼んでいないはずだが。
「どこに居る」
「稽古に。
すぐに戻ります」
風魔が鍛錬などすることがあるのか、と驚いた。
そのせいで煙に少しむせた。
「別に急がねぇから、戻ったら来るように言ってくれ」
「承知しました」
何を相手に稽古をするのだろうか。
普通の人間相手ではなさそうな気がする。
風魔のような忍が複数居るところを想像したが、
そんな筈があるか、と自分で笑ってしまった。
あんな人外に近い生き物がうじゃうじゃ居たとしたら、
わざわざ風魔が混沌など呼び込まずとも、
その場が混沌としているに違いないだろう。
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