風の嫁取
早川殿からの再三の誘いも断り続け、
は茶会当日も練兵場に立っていた。
兵士達がずらりと並び、槍の基本的な動作を繰り返している。
「目の前に敵が居ると思って!」
声をかけると、威勢の良い「はい!」という返事が返ってきた。
彼らの間を歩きながら、
ぎこちない動きの者に声をかけて動きを修正する。
形を体に叩き込めば、
いざというときに頭が真っ白でも体が勝手に動くはずである。
兵士達を生き残らせるのは、
そういうちょっとした事なのではないかと
は思っている。
「ククク……ご苦労なことよ」
一陣の風とともに、目の前に突然大男が現れた。
彼に関しては、人間の常識に当てはめることができない。
たとえば風とともに姿を現したり消したりすることや、
腕の長さが曖昧であることだとか、である。
もう随分慣れたので、これしきで驚く
ではない。
「何か御用で?」
「茶会には出ないのか?」
そういえば、会話もあまりかみ合わないのだった。
「私は欠席します、とお伝えしています」
は踵を返した。
会話は終わり、という意味をこめている。
「ならば余裕があろう。
我の稽古に付き合え」
声がついてくる。
振り返ったところで姿があるかどうか、確率は五分である。
「付き合いますから一度お引取り願えますか?
皆気が散るようで」
は辺りの兵を見渡した。
異様な見た目の風魔に見慣れた人間というのはごく僅かなもので、
ぎょっとしてつい凝視して手が止まっていたり、
動きが妙になってしまっている人間が少なくない。
「承知した。
終わる頃合にまた来よう」
ふわ、と風が吹く。
おそらく十割の確率で姿は無いだろう。
風魔はときどき一対一の稽古の相手に
を指名する。
戦績は今の所
が全敗であり、
彼にとって有意義な時間でないことは明白である。
としては一枚も二枚も上手の相手と対戦できるので、
よい経験になっていることに違いは無いのだが。
まあ、今回に限っては渡りに船に近い。
彼の相手をするので忙しいという理由で、
茶会に遅参する必要も無くなったからである。
「やーっぱり来なかったか……」
主催者席で甲斐姫はがっくりとうな垂れた。
茶会という名の大井戸端会議の席に
の姿は無い。
彼女が気に入っていたらしい朝顔のつぼみをかたどった菓子が可哀想だ。
甲斐姫はぶう、と頬を膨らませて楽しそうに話をする皆の様子を眺めた。
茶席といいつつも、今回の大人数では茶室には入りきらなかった。
なので、池の傍にある部屋の襖を全てはずし、
大きな一室として使っている。
水面をなでてから吹く風はすこしだけひんやりとしていて、
わいわいと集まっていてもその熱気はそれほど気にならない。
「そうね……でも、他のみんなには喜んでもらえて良かった」
早川殿が微笑む。
堅苦しくない、無礼講の茶席だということにしたら、
茶席というよりかは井戸端会議の拡大版のような様相を呈している。
今日一日分の仕事は男性陣に振れるだけ振っているから、
仕事が楽で嬉しい、ということもあるかもしれない。
茶菓子を決めてからも、手伝いに
を巻き込むだけ巻き込んだ。
その結果、作業の手伝いはすんなりと受けてくれるものの、
出席だけは頑なに断られ続けたのだった。
「ま、皆平等に骨休めも必要よね」
甲斐姫は菓子を切り分けて口に入れ、幸せそうな顔をした。
「うん」
早川殿は甲斐姫とは逆隣の空席を見た。
が座っているはずのそこには、可愛いお菓子だけが並んでいる。
「……やっぱり、後でお父様に相談しておこうかな」
『姉様!』と、自分を追いかけてくれていた
を思い出す。
他の弟妹達の中でも、とりわけ自分に懐いてくれていた。
それが徐々に距離が遠くなり、
もっと早く何かすればよかったのかもしれないが、
今やどう手を打てば良いのかさっぱり分からない。
「良さそう!
私たちからは逃げるかもしれないけど、
お館様からは逃げらんないだろうし」
にや、と甲斐姫が意地悪な笑みを浮かべる。
自分が一番親しいからと
の世話を引き受けてきたつもりだが、
ここにきて自分の力の無さを痛感している早川殿である。
氏康も
のことを気にしていたようだったので、
頼めば動いてくれるだろう。
「だからさ、今日は私たちも楽しもうよ。
せっかく準備したんだし!」
甲斐姫の前向きさにはいつも慰められる。
「そうだね」
二人で顔を見合わせて、「おー!」と意味も無く気合を入れた。
とりあえず今は難しいことは脇に置いて、
楽しい話をしていなければ損である。
今はおそらく練兵場にいるだろう
に、
菓子は後で届けることにする。
腕をふるってくれた料理人が、
『姫様方のために』とわざわざ言ってくれていたからだ。
ふと、彼女が槍を取ったときのことを思い出した。
戦に出るという気概に喜び、
しかしそれが娘だということに不安を感じ、
氏康に微妙な顔をさせていたことは記憶に残っている。
自分もそんな顔をさせたのだろうか、と思ったからだ。
そういえばその頃から徐々にではあるが、
底抜けに明るい笑みを見ることが無くなったような気がするのだった。
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