lost


伝承者の発表があった日の夜、
もうひとつ重大な発表があった。

、件の嫁ぎ先と連絡がついた。
 そろそろここを出る準備をしておくのだ」

はリュウケンの薬を危うく取り落とすところだった。

「え?」

「お前は私の介護もトキの看病もする必要はない。
 状況は変わったが、それでも先方はお前を守る程度の力はある」

「ちょっと待って」

「伝承者が決まるまで、とお前が言ったのだろう」

確かに言った。
しかし。

「良いな」

は返事をしなかった。
しかし、自身の力ではどうしようもないことは理解していた。
リュウケンがこうと決めたことを翻すことは無かったからである。

続く発作に己の死期でも悟ったかのようなリュウケンに、
病を得たトキである。
二人とも穏やかに暮らせるとは思わない。
そんな状態の二人を見捨てて出て行くのは酷な気がするが、
それがリュウケンなりのけじめのつけ方なのだろう。

あとどれくらい世話を焼けるのだろうと思いながら食事の用意をして、
部屋まで運び、ゆっくりと咀嚼するトキを眺める。

「……トキはケンシロウが伝承者になると思ってた?」

「驚きはしなかったな」

「どうして?」

「うまく説明できないな」

トキがスプーンを置いて考え込む。

「いいよ、食べる方に集中して」

「いや、にお願いがあって」

「何?」

「私と一緒にここを出て行かないか?」

は言葉に詰まった。

「……どうしたの、急に」

「体力も少々回復している実感がある。
 あまり無理は出来ないかもしれないが、
 多少の旅には耐えられるはずだ。
 ケンシロウは他の伝承者候補だった者から拳を奪わないようだし、
 人に役立てるという夢を叶えたいんだ。
 にはそれを手伝ってもらいたい」

「私じゃユリアの代わりにはならないよ?」

醜い発言だと知りつつも、口からこぼれ出てしまった。

「ユリアではなく、が良い。
 確かに昔はユリアに惹かれていたが、
 今はが愛しいというと虫が良すぎるだろうか?」

トキが困ったような笑みを浮かべた。

と過ごす穏やかな時間がかけがえのない時間なのだ」

は返事が出来なかった。

「……私を愛してくれとは言わない。
 迷惑をかけることに違いは無いことは分かっているよ」

トキの声がしぼんでゆく。
何故このタイミングなのか。

「……その言い方はずるいよ」

「何がだ?」

「どうして断ることが前提なの?」

トキが驚いたような顔をする。

「それは……そうだな、
 が良い返事をくれるとは思っていなかった。
 自分で言うのも悲しいが、
 これからどれだけ生きられるかどうかも分からない身だからな」

「どうしてそんな」

「友人だと思われていると思っていたから」

「私もトキがそう思ってると思ってた」

互いに顔を見合わせて、そして笑ってしまった。

「もっと早く言えば良かったな。
 そうすればもっと格好が付いたのだが」

「十分だよ。
 でも良かった、実はリュウケン様が縁談をまとめてくれた所なの」

「……危なかったな。
 師父には私から言おう。
 多分反対されるだろうから、そのときは駆け落ちしてくれるか?」

「喜んで」

は自分でも分かるくらい満面の笑みで答えた。
もしトキが倒れずに順当に伝承者になったなら、
こんな話が持ち上がるはずも無かっただろう。
禍福は糾える縄の如しというが、
本当にそのとおりだとは思った。

それからジャギが遅まきながら戻り、
ケンシロウにケンカを吹っかけて敗北した。
逃げる彼の背中には声をかけたが、振り返りもしなかった。
彼にはもう言葉など届かないのかもしれない。

その事件の後、ケンシロウはユリアに報告すべく道場を出た。
残念ながら二人が手を取り合う姿ももう見られないだろう。
トキはリュウケンに切り出すタイミングをうかがっているが、
何か察知しているのかリュウケンがその隙を見せない。
いつ頃ここを出る手はずが整ってしまうのか、
不安に思いながら過ごすのはかなり緊張を強いられる。

そのせいか、リュウケンに夕食後の薬を渡しそびれた。
後で気がついて慌ててリュウケンの私室を訪ねたが、返事が無い。
中を覗いたが、どうやら部屋には居ないようだった。

こんな時刻に部屋に居ないとなると、
修行しているのか、修行を見ているかのいずれかである。
最近は体調のせいもあってか過度な運動は控えていたから、
きっと誰かの修行を見ているのだろう。
今道場に残っているのはラオウとトキの二人で、
トキはまだ部屋で大人しくしていることの方が多い。

(ラオウが相手かな)

は二人が居そうな場所をいくつか考え、
それを片っ端から回ることにした。
部屋の前で待っていても良いが、
早く薬を渡したいとその時は思ったのだった。

まず一番近い中庭に向かったが、そこには居なかった。
その先に灯りが見えたので、きっとそちらだろう。
トキはラオウがここを飛び出すのではないかと言っていたが、
リュウケンに相手を頼むくらいである。
やはり杞憂だったのだろう。

はそう思いながら、
開けっ放しになっていた扉から道場の中を覗いたのだった。