lost


か」

ラオウが穏やかな声で言った。
訳が分からない。
その口調とは裏腹に、彼は血まみれだった。
その足元には更に血まみれの何かが落ちている。

「お前が残らねばならぬ理由はこれで無くなった。
 老い耄れは消えた」

ごつ、とラオウはつま先でその何かを蹴った。
濃厚すぎる血の匂いが鼻につく。
何故気がつかなかったのか。

「それは……」

ごろり、とその何かが転がる。
脳が視覚からの情報の受け取りを拒否したいと叫んでいる。

転がった何かは人であるらしかった。
血に染まったひげが見えた。
服も見えた。
見慣れた服である。

が探していた人が着ているのと、同じ服である。

「連れ出してやろう、
 お前を縛るものは何も無い」

ラオウがこちらに歩いてくる。

「どうして……」

「お前は十分に恩に報いたというのに、
 その老い耄れはまだ利用しようとしていたようだな」

「来ないで!!!」

「どうした」

「どうかしてるのはそっちよ!!!」

は叫んだ。

「混乱しているのだな」

ラオウはの腕を掴んだ。

「行くぞ」

「放して、リュウケン様が」

「俺が息の根を止めた。
 手遅れだ」

「でも」

は目の前のラオウが、本当にラオウなのかと疑った。
会話をしているが、意味が分からない。
本当にこんな男だったろうか。

を放してくれないか」

廊下の向こうからトキが歩いてくる。
すぐそこまで走ってきてくれたらしく、息が荒い。
ラオウはを引っ張るのはやめたが、手は放さない。

「トキ、お前もを食い潰すつもりか」

ラオウの声には少し怒りが滲んでいる。

「私にそんなつもりは無いし、師父も無かった。
 自分の行為を正当化するのは止めた方が良い」

トキの方も珍しく怒っている。
リュウケンが死んでいることに気が付いたのだろうか。

「見苦しいのはどちらだ」

「ラオウこそ、を連れて行ってどうする」

「然るべき相手に託す」

は私と来ることを選んでくれたのだ。
 託してくれ」

ラオウがに視線を移した。

「本当か」

は首を縦に激しく振った。

「お前には幸せに生きる権利が、それを選ぶ権利がある」

の選択は、ラオウから見たら幸せではないのかもしれない。
トキ自身もそう思っていた。
は深呼吸をした。
ラオウに反論するには勇気が居る。

「私はトキと一緒に居たいんです」

ラオウがを見ている。

「お願いです」

「俺は二度とここに戻らんが、良いな?」

「はい」

がそう言うと、ラオウはの腕を放した。

「……トキ、暫くはお前に託す」

ラオウの言葉に、トキは「分かった」と答えた。
それを聞いてラオウは一人で外へと出ていった。

それから、はトキと二人でリュウケンを埋葬し、
死を伝えるためにケンシロウへと使者を出した。
ただ、ケンシロウが戻るまでは暫く時間がかかりそうなので、
到着を待たずに旅に出ることにした。

「体調はどう?」

「悪くない。
 天気も良いから気分が良いな」

トキは軽々と荷物を抱えてトランクにつめている。
がここまで運ぶのに苦労した重量級の鞄も、
トキにかかれば投げ飛ばせそうな程である。

「……ごめんね、役に立たなくて」

「荷物持ちが欲しくてに同行をお願いした訳ではない」

トキが笑う。

「居てくれるだけで良いんだ」

「それはちょっと」

「働き者だな」

荷物を積み終えて、トキが助手席に座った。
ハンドルくらいは奪われまいと先に運転席に陣取ったである。

「さて、どこに行こうか……」

トキが地図を広げているが、
その地図も荒廃する以前の物なのであてになるかどうか不明である。

「こことかどうかな」

トキが地図を指でつつく。

「どこ?」

が地図を覗き込むと、頬にやわらかいものが触れた。

「あ、ごめん、ぶつかった」

「いや、キスしたんだ」

「はい?」

驚いてはトキの顔を見た。
予想外に近い。

「一応、師父や周りに気を使っていたものだから。
 もう誰に憚る必要も無いだろう。
 伝染らないとは思うが」

「……いいよ」

がそう答えると、トキの手が頬に添えられた。
至近距離で見詰め合うのが恥ずかしい。
目を閉じて、唇をあわせた。
触れ合うだけの、遠慮がちな口付けだった。

「幸せすぎてまだ実感が湧かないけど」

照れくさくてつい笑ってしまう。

「幸せだといってくれるのか」

「うん。
 トキが伝承者になるのを見届けて出て行く予定だったから、
 一緒に居られると思ってなくて」

「……伝承者になれなくて良かったことが増えたな。
 すべて失ったような気がしたのだが」

「トキが早とちりするなんて珍しい」

「そうでもないぞ」

道場を出ることになってしまったし、
伝承者はケンシロウに決まったし、
ラオウはリュウケンを殺してしまったし、
それでなくとも世の中は荒廃した。
前向きな情報は何一つ無い。

「本当に私は幸せだ」

「それは私のセリフだからね?」

「いや、こればかりは譲れないな」

トキが笑いながら言う。
そんな会話をしながら、は車を出した。
到底手に入らないと思っていた、
トキとくだらない話をして笑合うという時間を手に入れた。
リュウケンには申し訳ないが、
自身はこの上ない幸せを噛み締めていたのだった。