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次の日、は気分が優れないことを理由にシバの鍛錬を休んだ。
メニューは決まっているのでシバは一人で出かけたそうで、
アイリもいつもどおり広場に来たそうである。
伝えに行ったユウトは、
シバがいたく心配してくれていたと言っていた。

サウザーの雑用も休みたかったが、
そちらは理由もなく休むなという厳しい返事が返ってきた。
随分怒っていたようだ、と伝えに行ったユウトが顔を顰めた。

なぜ自分は攻撃ができないのか。
したくないのか。

昨日サウザーに問われたが、さっぱり分からない。
のろのろと着替えて、
のろのろと部屋を出た。
食欲が無いというと、
リーナは甘い果物のジュースを用意してくれた。

のろのろとサウザーの部屋に向かうと、
彼はいつもの調子で「黄色のラベル」と言った。
それ以上のろのろすると怒られそうなので、
昨日したとおりにネルを用意してコーヒーを淹れる。

カップをいつもどおりサウザーのデスクにおいて、
さっさと予備のネルの作成にとりかかった。
昨日は途中で放り出していたので、
作業自体はもう少しで終わる。

コーヒーを飲みながら、
サウザーはくつくつと笑った。
普段は無いことだったので顔を上げると、
悪だくみをしているとしか思えない笑みが張り付いていた。

「どうやってシュウを誑かした?」

タブラカシタ?

はその語の意味を理解するのに手間取った。
そして、理解して、困惑した。

「何もしてない」

「ならば、シュウがお前に目をかけるのは何故だ?
 攻撃もできぬ、
 拳と呼ぶにはおこがましい舞しかできぬお前を」

かたり、とカップがソーサーに置く音がした。
それだけの音が、やけに大きく聞こえる。

「レイもお前を褒めたという。
 愛してやまないアイリに手伝わせたりもする。
 どうやって誑かしたのだ?
 誑かしたという言葉が嫌ならば、
 どうやって騙したのだ?」

「騙してないです!
 子どもが増えたから、困るだろうってシュウが!」

何が言いたいのか。

「堅物二人を手玉にとるとは、やり手だな。
 俺の最初の対応も、
 あながち間違ってなかったという訳だろう」

「違うって言ってるでしょう」

「ならば証明してみせよ。
 はは、不意打ちさえ警戒しておけば、
 逃したりはせん」

サウザーは笑いながら席を立ち、
ゆっくりとに近づいてきた。

「違う」

「ではどうして、お前がシュウの子を教える理由があるというのだ?
 本当にあれは、シュウの妻の子か?」

サウザーは下衆だ。
分かりきっていたが、そう思った。

「当然でしょう!」

「ではなぜ、レイはお前に協力的なのだ?
 男二人を意のままにする技、
 俺にも見せてもらいたいものだ」

は持っていた針と縫いかけのネルを机に叩きつけて、
立ち上がった。
サウザーはすぐ目の前で口元をゆがめたまま、
両手を左右に開いて見せた。

「攻撃してくれても良いのだぞ」

は無言で、サウザーの頬を平手打ちした。
子ども達の急襲で鍛えられた予備動作なしの平手打ちは、
なめきったサウザーの頬に見事にきまった。

パァンッ

乾いた音が、部屋の中に響いた。
サウザーが驚いた顔でこちらを見下ろしている。

「……性格直したほうが良いんじゃないの?
 南斗の極星がこんな下衆野郎だなんて、恥ずかしい」

「なぜそれを蹴りでできぬ」

思い切りひっぱたいたせいで、
サウザーの頬が片側だけ赤い。
その顔で凄んでいるのに、恐ろしいのは何故だろうか。

「距離をとるための蹴り、拳ではない平手打ち、手刀、
 それができてなぜお前は攻撃ができんのだ!」

「知ってたら、自分でなんとかします!
 今だって、できるならあんたを蹴倒してやりたい!」

それが偽らざる本音だった。
自分が攻撃できないことを詰られても耐えるしかない。
シュウやレイを貶められるのは耐えられなかった。
しかし、蹴りをしようとするとじわりと脂汗が滲む。

そこでふと、サウザーの言葉が示す意図に気がついた。
に攻撃させるために?

「……怒らせたの?」

「確認しておかねば、後々面倒だからな」

反対側の頬もひっぱたいてやろうとしたが、
今度は触れる前に腕を掴まれた。

「まあ、お前を奪ってシュウがどんな顔をするか見物だが」

「前も言ったけど、
 言って良い事と、悪いことがある。
 人として最低。
 南斗の将星を名乗るんだったら、
 その人格をなんとかしなさいよ!」

先ほどと同じ側の頬を再び平手打ちした。
やはり、利き手の方が素早い。

「帰る。
 二度とこない。
 良いでしょ、別に」

掴まれた腕を無理やり引っこ抜いて、
は部屋を出た。
心底許せなかった。
腹が立ちすぎて、涙が出た。
そんなに、
わざわざ声をかけてくる馬鹿はどこにも居なかった。






ぬらしたタオルで頬を冷やしながら、
サウザーは至極不機嫌だった。
コーヒーは冷めてしまったし、
には言いたい放題に言われたし、
頬の赤みがあまり引かない。

完璧に仕事はこなしている。
誰よりも強くある。
北斗神拳の使い手と戦っても、
奴らはサウザーの秘孔を突くことはできない。
だから、負けない。
南斗鳳凰拳の伝承者として、恥ずべきところは無い。

のあの反応から考えると、
シュウやレイを誑かしたというのは本当に違うのかもしれない。
あの性格ではそんな小細工は不可能だろう。
そういえば、フドウもを可愛がる一人である。
なぜか。

分からないことをぐだぐだ考えていても前に進まない。

サウザーは頬の赤みが引いたのを鏡で確認すると、
シュウの居室へ向かった。
今は夜盗の大掛かりな征伐の前なので、
どこかへ出かける用は無いはずだ。

思ったとおり、入り口で尋ねるとシュウは部屋に居た。
勝手に中に入り、部屋のドアをあけると、
少し驚いた顔をしたシュウが座っていた。

「何か、書類に不備があったかな?」

「無い。
 シュウ、お前は白鷺拳の何をに教えたのだ?」

単刀直入に問うと、
シュウは苦笑しつつ「知る全てを」と答えた。

「ではなぜ、の蹴りには敵意が無い」

最初はサウザーの剣幕に驚いていただけのようだったが、
シュウの顔がにわかに曇った。

「それは違う。
 の性格はある程度知っていると思うが、
 私が知る彼女の拳は攻撃的だった。
 だから、私は防御を重点的に教えたのだから」

「この俺が好きに殴らせてやると言ったのに、
 触れる前に攻撃を止める。
 それなのに白鷺拳を使わないときはすぐに手が出る。
 何なのだ、あれは」

「……それは初耳だ。
 明後日フドウが立ち寄ってくれることになっているのだが、
 同席するか?」

「そうする」

「では用意しておくよ」と、
シュウはいつもの柔らかな調子で言った。
サウザーはそれ以上用事もないので、さっさと自分の部屋に戻った。

そんな短い間に来客があったらしく、
人が待っていると衛兵に告げられる。
こんなときに誰だ、と不愉快に思いながらドアを開けると、
ユダが寛いだ様子でソファに座っていた。

「お忙しかったかな?」

香水の臭いが部屋に充満している。
この前は、この臭いを全て消すまで時間がかかった。

「何か用か」

「ええ、のことで少し分かったことがあったので」

にい、とユダは口紅を塗りたくった唇の端を持ち上げた。

「言え」

「以前彼女は白鷺拳の使い手とは言えない欠陥がある、
 とお伝えしたが、その理由と思われる事件を見つけたもので」

ユダは続けた。

がフドウの村に移るきっかけとなったのは、
家族の死である。
それはの父が母を扼殺し、の妹を殴り殺し、
そして本人を殺そうとしたところで、
たまたま訪れたシュウに父を殺された。
は父の血を全身に浴びた状態でシュウに保護された、という。

「父を殺したのはシュウ」

ユダは断言した。

「そもそも、の父はシュウと昔技を競った兄弟弟子。
 あの温厚なシュウをして、殺さしめたのはどういった理由だったのか…
 ちょうどその直前にシュウは自分で目を潰して、
 継承者として適格か、という物議を醸していたのは覚えているか?
 そのせいで記録として残っていたのだ」

とユダは紙の束をデスクに置いた。

は随分父になついていたようだ。
 『父さんより強くなる』と言ってはばからなかった、
 と昔の彼女を知る者が証言している。
 まあ、事件が起こった頃には、
 道場から足が遠のいていたようだが……」

父になついていた。
その父が殺された。
サウザーは、もはやユダの話を聞いていなかった。

「ま、父よりもシュウになついていたということか。
 どこで何をしていたのやら」

オウガイが誰かに殺されたら、
自分は間違いなく復讐していただろう。
現実は自分がオウガイを殺し、
復讐する相手も機会も無いのだが。

ぼんやりと、オウガイの亡骸を抱いて叫ぶ昔の自分を思い出した。
本当に悲しく、嫌な記憶である。
オウガイはだんだんと冷たくなり、
呼びかけにはこたえてくれなかった。

は随分強かな女のようだ。
 災いが起こる前に、処分してはどうか。
 ……サウザー?」

ユダが不審に思ったのか、サウザーの顔を覗き込んでいる。
妙に勘の良い男なので、
サウザーは急いで記憶の蓋を閉じた。

「それは俺が決める」

その返答にユダは何か言いたげだったが、
飲み込んだようだった。

「ああ、それからもうひとつ。
 件の夜盗の拠点襲撃についてだが、
 配下の都合がうまくつかず、
 シンと代わったという話はもう聞いているか?」

「聞いている。
 代わりにお前とレイには街の警備にあたれ」

「お手間をとらせたようだ。
 では、失礼」

ユダはにやにやと笑いながら部屋を出て行った。
その姿が消えてから、
サウザーは換気のために窓を開け放った。
そしてやっと落ち着いて、
ユダが置いていった書類に目を通す。

全てに目を通し終わって、サウザーは己の記憶を探ってみた。
そういえば、そういう事件もあったかもしれない。
シュウは一切弁解せず、また、
兄弟子の妻の殺し方はシュウによるものではないと判断され、
仁星が子どもを救ったのだ、と評判になったような気がする。
あまり覚えていない。

を連れてきたいと思ったのは、
美人だからでも、拳が使えるからでもない。
ではなぜかと問われると、
自分に臆せず意見する珍獣を傍においてみたいというのも、
今となっては違うような気もしていた。

早く、フドウにあって事情を聞きたい。
そうすれば、をシュウに返しても良い。
疑問も晴れれば全て終わる。

書類には、の父は夜盗の襲撃により脚を痛め、
伝承者候補を外れたと書かれていた。
そんな父が、に何を期待していたのか。

サウザーは書類を握りつぶして、ゴミ箱に投げ捨てた。