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ユダは複雑な気持ちで歩いていた。
サウザーの雑用に新たに雇われた女は、
シュウの愛弟子であり、
もっとも重要なのはレイもその技量を称えたということである。
ユダがただ一人、己よりも美しいと認めたレイが。
気に食わない。
サウザーまでもが認めているのも気に食わない。
彼が認めたならば、強いのだろう。
強くて美しい者は、これ以上増えなくて良い。
その女が午前中は道場以外のところで子どもを教えているらしい。
そういう話を聞いて、
しばらく我慢していたが、確認しに来てしまった。
そう、これは己が一番であるという確認の作業なのだ。
自分にそう言い聞かせる。
手に入れた情報によると、この先の空き地で集まっているらしい。
すい、と物陰から様子を伺うと、
なるほど、女が一人子どもを集めている。
よく見ると、レイの妹のアイリもいる。
近くに空き地が見下ろせる廃ビルがあることも確認済みだったので、
そちらに入って窓から様子をゆっくりと確認する。
しばらくは退屈な、単純な動作を教えていた。
女は何をするでもなく、
二人組みの子どもの間をうろついて、指導している。
それがひと段落したのか、
子ども達は再び
の周りに集まった。
無駄足だったかな、とユダはほくそ笑んだ。
そもそも、子どもに教える程度の技量しかないのだろう。
レイが褒めたのも、
師は弟子に尊敬を集めねばならないからではなかろうか。
「
ー、また踊ってるの、見たい!」
「僕も!」
そんな子ども達の声が聞こえたので、
ユダは帰りかけていた足を止めた。
「あれは踊ってたわけじゃなくてね…」
「見ーせーてー!!」
「その後で鬼ごっこ!」
「見せてくれたら鬼ごっこ、僕らだけでするから!」
しょうがないなあ、という様子で
は子ども達から距離をとった。
空気が一瞬で張り詰める。
そして――。
「すごーい!!」
わ、と子ども達が拍手をした。
ユダはそこで我に返った。
美しい。
シュウが同じ動きをしていたのを見たことがあるが、
それ自体は基本的な攻撃の型である。
白鷺拳の特徴である蹴りを主体とした型で、
面白いところは特に無い。
しかし、
のそれは攻撃するという目的を廃して、
徹底的に動作を滑らかにしている。
そのおかげで緩急のついた舞のようになっているし、
身軽なのも相まって跳躍が飛翔に見える。
そう己の中で評価を定めて、
そして、ユダは吐き気がするほど嫌な気分になった。
殺してしまいたいが、人が多く、事が大きくなると面倒だ。
諦めて時期を待つしかないか、
と思いつつ
を眺めていたときである。
ふと、ユダの記憶の片隅で埃をかぶっていた記憶が出てきた。
もう一度頭の中で
の動きを再現する。
彼女は攻撃しようと思えばできそうだ。
しかし、それを鍛錬の段階から封じている。
なぜか。
自然と口の端がつりあがるのを、ユダは止められなかった。
彼女の拳は美しいかもしれない。
それは悔しいが、認めよう。
しかし、それだけである。
拳としてはまったく使い物にならない。
(もう少し、調べてみてもよさそうだ)
それから、このユダに屈辱を一瞬でも味わわせた事を後悔させてやる。
鬼ごっこに興じる子ども達の声などユダには届かず、
高笑いするのをこらえながら廃ビルを出た。
ともかく、サウザーには教えてやろう。
それが面白そうだ。
サウザーは
が入れたコーヒーを飲んで、
満足げにカップを置いた。
ように見えた。
今日は初ネルドリップコーヒーである。
何かあるかと思ったが、別に何も無かった。
いつもどおりである。
特にお小言も無かったので、
開き癖のつくくらいにドリップの手順を書いた本を眺める。
手入れが極限に面倒なネルの扱いは、
間違うとまた作成しなければならないというペナルティ付である。
もし失敗すると慌てるので、予備のネルの作成に入る。
こちらは布の糊を落とすだけにしておいて、
少しの手間でもう一度淹れられるようにしておく予定だ。
しかし、どれだけやっても縫い物だけは一向に上達した気がしない。
この作成の作業が一番面倒だった。
腹の立つことに、
今日に限って部屋の中がきつ目の香水の匂いがする。
ふんわり香るとかではなく、くさい。
サウザーもお気に召さないのか窓を全開にしているし、
コーヒーの香りも負けそうなくらいだ。
加えて、午前中の不審者の存在である。
気がついたときには廃ビルからこちらを見ていた。
アイリのストーカーか、と思ったが、
一瞬殺気を感じたくらいですぐに気配が消えていた。
レイに教えてあげないとなあ、と
はぼんやりと思った。
時折、仕事の合間にもレイは顔を出してくれる。
アイリが子ども達にパンを分けているときに来たときは、
「しっかり働いているようで何よりだ」と笑っていた。
「おい、手が止まっているぞ」
そんなさわやかな思い出を、
サウザーがさえぎった。
「……すみません」
顔を上げると、
サウザーは不機嫌そうな顔でコーヒーをのどに流し込むところだった。
彼の顔で機嫌がよさそうなときは、
悪だくみしているとしか思えない笑顔がはりついている。
どちらが良いとはちょっと判別しがたい。
「香水臭い」
「そうですね」
高級娼婦的な誰かを連れ込んだんですか、
と、のど元まで出かけて止めた。
フドウやシュウからは嗅ぎ取ることの無い匂いである。
空になったカップを回収して、洗う。
ちょっと運が悪かった。
ネルドリップの本当の威力を確認するのはまた後日である。
ため息をつきつつ部屋に戻ると、
サウザーはデスクに腰掛けて腕組みをしていた。
「鍛錬に行く。
お前が相手しろ」
早くしろ、と言わんばかりにこちらをにらんでいる。
「お断りします。
私じゃ練習台と変わらないでしょうし」
サウザーの相手をするくらいなら、
苦手な裁縫をがんばるほうがマシというものである。
「俺が相手してやると言ってるんだ。
お前に拒否権があると思ったのか?」
無かったとは初耳である。
そもそも、最初に裏庭で出くわしたときだって、
フドウの村でつかまったときだって、
サウザーの練習相手が務まるとは到底思えない有様だった。
狙うは不意打ち一択である。
「早くしろ」
ついに口に出した。
彼を怒らせたところで別に利益は生じないので、
はしぶしぶ裁縫箱を片付けてサウザーの後ろについて外へ出た。
サウザーは手近なところにある衛兵の練習場に向かった。
場所をあけるように命じてあったのか、
柵の外側に人は群がっているものの、
だだっ広い広場に人は居ない。
真ん中辺りまで歩を進めて、
サウザーはくるりと振り返った。
「好きなように打って来い」
「ええー……」
打って来いと言ったわりに、サウザーは構えない。
「どうした」
「え、もう良いんですか?」
「南斗鳳凰拳に構えは無い」
サウザーの機嫌はどんどん悪くなる。
仕方なく、
はサウザーの隙をうかがった。
が、どこから攻めようとも返り討ちにあう自分しか想像できなかった。
「……できません」
「好きに打たせてやるといっているのだ。
ふん、では、俺は攻撃はせんでやろう」
攻撃しない、という顔ではない。
はしぶしぶ、嫌々、
重い気持ちを奮い立たせて間合いをつめた。
最初に、利き足で下段、中段、上段蹴りをしてみる。
それをサウザーは軽くいなした。
それでも体重で劣る
は弾き飛ばされそうなレベルだ。
「本気で来い」
本気でしたところで結果は変わらないだろうに。
は前蹴りでサウザーを突き飛ばし、
後退させたところを頭を狙ってとび蹴り。
掌底ではじかれる。
それを見越して、体を回転させて回し蹴り。
それでもサウザーが動揺することはなく、軽くはじかれた。
そもそも、
は実践には乏しい。
すぐに攻めあぐねてしまった。
サウザーにはそれがいたくお気に召さないらしく、
顔はどんどん険しくなる。
人の一人や二人、というレベルでなく、
村ひとつ滅ぼすレベルで怒っているような。
言うとおりにしたのに、なぜそんなに怒っているのか。
「……もう良い。
型を見せろ。
何でも良い」
仕方が無いので、午前中に子ども達に見せた型をなぞった。
シュウがすると、力強くて素敵なのだ。
最後の跳躍から上段蹴りをし、回転してから着地すると、
不機嫌というか理解できない、という顔でサウザーは腕組みしていた。
どちらにしても人を馬鹿にしたような顔である。
「なぜお前は攻撃するときに加減する」
「加減してません」
「加減しなければ、こちらの手も多少痛むはずだ。
当たる直前で止めて勢いを削いでいる。
今の型もそうだ。
なぜ攻撃の型で、相手が居ることを想定せん」
もう一度してみろ、とサウザーが言う。
はしぶしぶ最初の構えをとり、
相手がそこに居ることを想定する。
ふと、父親の姿が見えた気がした。
脂汗がどっとにじみ、吐き気がする。
めまいがする。
よろけて、
はその場に崩れ落ちた。
肩で息をして、目を瞑る。
どうしたのだろうか。
「どうした」
サウザーが怪訝そうな顔で聞いてくる。
そんなことは
自身が知りたい。
しばらく
を見下ろしていたサウザーは舌打ちして、
見物していた一人に水を取ってくるように命じた。
「立て」
立ち上がりたい。
しかし、できない。
体が震える。
グラスに入った水をサウザーが受け取り、
の顔に浴びせかけた。
「立て」
少し、頭が冷えた。
は一度深呼吸してから、立ち上がった。
ふらつくが、先ほどよりは随分ましである。
「なぜできん」
ぽたり、ぽたりと前髪から水が滴る。
その間も、
は動くことができなかった。
なぜ。
問われても答えが分からない。
今、一番答えを欲しているのは自分に間違いない。
はそう思った。
「もう一度やれ」
は構える。
できないはずが無い。
なぜならば、この型を教えてくれたとき、
シュウも同じことを言っていたのだ。
『目の前に相手がいると思うんだ。
そうして、はじめてこの型が攻撃として成り立つ』
そういえば、いつからそれを忘れていたのだろうか。
それすら分からない。
集中するのだ、と自分に言い聞かせる。
そう、型ではなく攻撃。
それは相手がいて初めて成立するのだ。
再び、相手が前にいると想定する。
そうした瞬間、全身から脂汗が吹き出た。
首を変な方向に曲げた母がこちらを見ている。
体の震えが止まらなかった。
できない。
したくない。
攻撃なんて、絶対に。
なぜ?
サウザーは微動だにしない
を眺めていたが、
しばらくしてため息をついた。
「もう良い。
今日は帰れ」
その声を合図に、
は全身から力が抜けた。
それがはっきり分かるするほど強張っていたらしい。
サウザーは振り返りもせず、広場を出て行く。
ざわざわと、見物していたギャラリーの声が聞こえた。
はしばらく立ち尽くしていたが、
そのまま家に帰ることにした。
ひどく、疲れていた。
はやく解放してほしかった。
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