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引越しの準備は、それほど時間がかからなかった。
シバの荷物の多くは後から送る予定だったのでまだ届いておらず、
また、の荷物自体はそれほど多くなかった。

子ども達はとの離別を寂しがり、
レツは背中に張り付いたままだった。
「行っちゃ嫌だ」という声は、
の心を酷く痛ませた。

自身、村を離れたくは無かった。
サウザーがどれほど偉く、恐ろしいのかよくわからないが、
シュウが妥協案を出し、フドウがそれに異を唱えなかった。
それは、彼らが許した譲歩なのだろう。
ともかく、サウザーと接するのは半日で終わりである。

住まいはフドウが借りている家になった。
前に一度行ってあるし、は少し安堵した。

「会いに来てね」とフドウに頼むと、
笑いながら「もちろんだ」と応えてくれた。
いつになるかは分からないが、必ず来てくれるはずである。

準備が終わると、すぐに村を出ることになった。
サウザーは待ち時間が腹立たしいらしく、
眉間に皺を寄せて、無言で座っている。

「すぐもどってきてねー!」

子ども達がそう口々にいいながら、手を振っている。
その後ろにはフドウが心配そうな顔で立っている。
は見えなくなるまで、手を振った。

短いうちに往復を繰り返すとなれるもので、
最初は随分と遠く感じた皇帝の街へはすぐに到着した。

が先日使っていた部屋をそのまま居室に定めて、
荷解きをする。
服を何着かクローゼットに放り込んで、終わりである。
用意するときも時間はかからなかったが、
荷解きにもほとんど時間はいらなかった。

シュウとサウザーが移動中に話をして、
午前中はシバに拳法を教えて、
午後はサウザーの雑用をすることになった。
日暮れまでには解放してもらえるらしい。

ため息をついていると、家政婦のリーナに慰められた。
の落胆振りをみて、食卓にはちょっと豪華な料理が並んだ。
いつもならば子ども達に囲まれての夕食が、
今日は一人ぼっちである。
用意された食事は温かいし、おいしいし、
何の不満も無かったが、
それでもあまり食欲が無かった。





次の日、はシュウの家までシバを迎えに行って、
二人で近くの広場へ出かけた。
忌まわしいあのサウザーと出会った建物には修行の施設やら、
道場がたくさんあったが、
あまり入りたいとは思わなかった。

いつもどおり体をやわらかくして、
防御の練習をして、
新しくバランスを取る練習をする。

「体の軸を意識して、体重を移動させる。
 蹴りを主体とする白鷺拳はどうしても片足で立つことも多いから、
 これをマスターしておくと、後々蹴りの威力が十分発揮できるのよ」

と、近くにあった杭の上にひらりとは片足で乗って見せた。
その上でいくつかの攻撃の形を見せる。
軽業と罵る輩も居るだろうけれども、
これが無意識にできないことには自在に蹴りを出すこともできないだろう。

ということで、シバにも同じように杭の上に立たせた。
彼はやはりシュウの子で、すぐにコツを掴んだ。

「できた!」

と嬉しそうに言うシバの顔は年相応の笑顔で、
は一緒に笑って力いっぱい褒めた。

そんな楽しい午前中の時間を終えて、
サウザーの居室を訪ねた。
六聖拳は皇帝の城の門番であり、
そのための部屋もあった。
彼はそちらの方に滞在する時間の方が多いらしかった。
は己の不運を呪いたくなった。

シュウに言われた通り、
入り口で用件を伝えると衛兵は微妙な顔をしつつも中へ通してくれた。
案内された部屋にはサウザーが居り、
以外にもまじめに書類に目を通しているところだった。

「遅かったな」

「そうでしょうか」

「そこのテーブルを片付けろ。
 終わったらコーヒーを用意しろ。
 その扉の向こうに炊事場がある」

サウザーはを見ようともせず、顎をしゃくった。
確かに、彼の机と対面する場所には扉がひとつある。

「……はーい」

誰か来客でもあったのか、
応接用のテーブルの上にはカップが三つ並んでいる。
手のつけられていない茶菓子が並び、
このご時勢に贅沢なものだ、とは嫌味に感じた。

ぐちぐち文句を言っても始まらないので、
は隣からお盆をとってきてテーブルを片付けた。
物の少ない炊事場で、片付けるべき場所はすぐに見つかった。

それが終わってから、コーヒーの支度をした。
ドリップのセットと、すでに挽かれた豆の缶が棚に鎮座している。
はこの贅沢っぷりに、嫌味を通り越して嫌悪を感じた。

湯を沸かしている間にカップを用意して、フィルターと豆を準備する。
分量のメモが一緒においていたのは、天からの救いだった。

心の中で悪態をつきながら、湯をゆっくりと注ぐ。
コーヒーの良い香りが部屋中にすぐに広がった。
ミルクや砂糖の類が無いので、
ブラックのままサウザーのデスクの端におく。

サウザーは何も言わずにそれを一口飲んで、カップを置いた。
嫌味のひとつでも言われるのか、とは身構えたが、
考え事でもしているらしく何も言わなかった。

指示も無く、よくわからない時間が流れる。
部屋の中は掃除がゆきとどいており、
デスクの上も書類がきっちりとそろえておかれている。
意外に神経質なのかもしれない。
そして、すべきことが無い。

「おい」

そんなことを考えてぼんやりしていたので、
突然声をかけられたときには完全に気が抜けていた。

「え?」

「……」

サウザーの眉間のしわが、増えたような気がした。






サウザーは数日間、の様子を眺めていた。
出した指示が終わってから次の指示を出すまで、
はただひたすらぼんやりしていた。
所在無げに窓のそとを眺める姿は、
ここから出て行きたいのだという思いがにじみ出ていた。

それは最初から知っている。

子どもの喧嘩を仲裁している姿を見たとき、
連れて帰りたいと思ったのだった。
フドウやシュウと対立するのも面倒だったので、条件も飲んだ。
しかし、なぜ連れ帰りたかったのか、と自問したところで、
明確な回答は自分の中には無かった。

が淹れるコーヒーは毎回同じ味だった。
違う種類の豆があるはずだったが、
面倒なので言うのはやめた。

その日は来客があり、
気を回したつもりなのか菓子折りを持参していた。
「サウザー様が若い女性を連れてきた、と聞き及びまして」などといって、
を見て下卑た笑いを浮かべていた。
不快だったが、殺すと後が面倒な人物であったので、やめた。

客が帰ったあと、はさっさとカップを片付けて、
「これはどこにしまってあるんでしょうか」と、
菓子折りを見下ろして困った顔をした。

「捨てておけ」

「は?」

怪訝な顔をして、彼女はサウザーを見上げた。
箱を掴んで押しやると、
は「?」という顔をして受け取った。

「捨てておけ、と言ったんだ」

「……お菓子って、けっこう高いんですよ?」

「俺は食わん」

訳が分からない、というの顔が、
徐々に怒りに覆われ始めた。

「いらんから捨てる。
 当然だろう」

「まさか、そうやって全部捨ててるんですか?」

「当前だ」

昨日の夕食もまずかったから、作り直させたのだったかな。
サウザーがそういい終わる前に、
のチョップが眉間に直撃した。

「食べ物を粗末にするなって、言われたこと無いんですか!」

そもそも、明日食べるパンすらない人も居るのに!
と、のお小言は続いて、
そして途絶えた。

「……」

「……」

互いに無言になる。
の手は、サウザーの眉間から動かない。

「参考までに教えてやるが、
 そんなことは言われたことが無い」

「の、残さず食べなさいとか」

「聞かんな」

「大きくなれないぞ、とか……」

どんどんの声が小さくなり、
手は引っ込められた。
視線は泳ぎ、菓子箱を持ち替えたりと落ち着きが無い。

別に眉間が痛いわけではない。
失礼な奴だが、殺してやろうとは思わない。
理解しがたい存在を前に、
サウザーは自分の顔がより険しくなるのが分かった。

「ありがたく頂戴します。
 帰ります」

は素早い動きで部屋を出て行った。
部屋の中は既に綺麗に片付けられている。
そこでふと、サウザーは思い出した。

『しっかりたべるんだぞ』

オウガイには言われた。
嫌われたくない一心で、食べた。
そんな日常的なことはすっかり忘れていたが、確かにあった。

まさか、自分がにお師さんを重ねるとは。

サウザーはしばらく、立ち尽くしていた。






シバはと二人、広場に居た。
朝から神妙な顔つきのは、
シバから見ても悩んでいる様子だった。

「何かあったのですか?」

「うーん……シバ、ほんとうにあなたは良い子だね」

そういって優しく頭をなでてくれた。
どうやら自分では役不足らしい。

シバが基本の体操をしている間、
はいつもならば手伝ってくれたりもするのだが、
その日は一人で型をなぞっていた。

誰かを攻撃する意図の無い動きは、
どちらかというと舞のようである。
ふわり、と軽く跳ぶ様は、とても綺麗だ。

最近はこうして二人で居ると、
近くの子ども達なんかがやってくるようになった。
フドウの家でもそうだったように、
は分け隔てなく全員に教えてくれる。
一日の長があるシバは、
と組んで彼らに教える役割を担ったりする。
それが少し誇らしい。

ある程度経ったら、遊ぶ。
遊んだら体力がつくのよ、などとは言う。
早く次へ進みたいという気持ちもあるが、
結局遊ぶのが楽しくて気がつけば時間が来てしまう。

そんな仲間がちらほら集まりはじめても、
は何事か考えているようだった。
舞はどんどん早くなった。
とび蹴りをしてから空中で体をひねり、回転して着地する。

ぼう、としていると背後から拍手が起こった。
シバが振り返ると、
シュウの親友であるレイが立っていた。

「なるほど、シュウが褒める訳だ」

低く甘い声で、にこりと微笑む。

「どちら様ですか?」

はあからさまに疑いの視線をレイに向け、
手招きして子ども達を背後に移動させた。

「あの、南斗水鳥拳の伝承者のレイさんです。
 父さんが呼んでおいた、って昨日」

シバが慌てて横から説明する。

「ああ……はじめまして」

「はじめまして。
 こっちが妹のアイリ」

「はじめまして」と、
レイの後ろから金髪の少女がひょっこりと出てきた。

「シュウから何か手伝ってあげてくれ、と頼まれたのだが、
 これは俺が手伝うことなどあまりなさそうだ」

「お水とか、用意して持ってきたのです。
 良かったら、休憩のときにと思って」

アイリがバスケットと、水筒を差し出す。
「あっちに用意しておきますね」とアイリは木陰の方へ歩いていった。

「ありがとうございます。
 ……あの、サウザーは怒ってましたか?」

アイリを見送りながらが尋ねると、
レイは笑い出した。

「何をしたのかは知らないけど、
 朝から見かけたときは普通だったよ」

「……そうですか。
 殺されるんじゃないか、と日に何回か思うので」

「殺すつもりなら最初からそうしてるさ。
 あいつに情は無い」

ほう、とが小さくため息をつく。
悩みの種はサウザーだったか、とシバは一人納得した。

さん、アイリを手伝いにおいていくので、
 いろいろ言ってください。
 あと、サウザーの気まぐれも長く続かないだろうから、
 あまり深刻に考えないで。
 アイリ、できることをしっかり手伝いなさい」

レイはそう声をかけて、去っていった。
アイリは木陰にシートを広げて、
にこにことシバやを見守っている。

その日から、鍛錬にアイリが加わることになった。
レイやシュウのように、誰かのために何かできるようになりたい。
シバは強く、そう思った。