spectrum
はシュウの背後で、
彼の服のすそを掴んでいた。
箱に入れて、蓋をして、封をして、
鍵を掛けて、厳重にしまいこんでいた記憶がゆっくりと戻ってくる。
怒鳴る父。
なだめるシュウ。
『お前に何分かるというのだ!』
父の言葉に絶句するシュウ。
はシュウの背後で、
今と同じように服のすそを掴んで目を閉じていた。
いつも怒られる
を、シュウはかばってくれた。
ぽん、と大きなフドウの手が
の背中に添えられる。
そうだ、大丈夫。
今はちゃんとしたお父さんがここに居るのだから。
ホクロ男――サウザーはちらり、とフドウの顔を見て、
しかめっ面をさらに顰めて言った。
「……その女を取り逃がしたのでな。
どれほどの使い手かと思ったが、期待はずれであったわ」
「拳士として見ているのであれば、そうかもしれない。
気が済んだか?」
いつでもシュウは優しい。
は無言で二人の会話の成り行きを見守っていた。
フドウにまとわりついていた子ども達は、
不穏な気配を察知してか、
おとなしく家の中へ入った。
残っていた子どもの一人が、
の手を握った。
そちらを見ると、シバが
の手を握っていた。
大丈夫。
シュウも、フドウも居る。
小さなシバの手を、
はそっと握り返した。
「お引取りください。
ご承知のとおり、未熟者ですので」
ははっきりと、そう口にした。
サウザーとシュウが
を見る。
「目的も済んだようですし、お引取りください」
言うだけ言って、
はシバの手を引いて家の中へ戻った。
振り返ってはいけない。
まっすぐドアまで歩いて、ドアを開けて、
後ろ手に閉めた。
がちり、と鍵が閉まる音が聞こえるまで、
全身がこわばっていた。
やっぱり拳法なんて嫌だ。
にとって、拳法とは不幸を呼ぶ儀式でしかなかった。
家に入ってしまった
の背中を見送って、
シュウはサウザーに視線を戻した。
彼は忌々しげにドアを睨んでいる。
シュウはふと、
なぜサウザーがこれほどまでに
に執着しているのだろうか、
と疑問に思った。
珍しいことに、サウザーが取り逃がしたらしい。
ごく稀にではあるが、無いことは無い。
それほど興味が無い場合や、
逃がしてから追い討ちをかけたりする場合である。
しかし、先ほどは殺そうとまでして、そして止めた。
誰に対しても情を見せないサウザーが。
「せっかくご足労いただいたんですが、
うちにいるのは子どもばかり。
私の拳を継ぐような者もおりませんでな。
宿代わりに使っている部屋を用意しますので、
今日はそちらでお休みいただけましたら」
フドウが不機嫌そうなサウザーに声をかけた。
彼は「そうさせてもらう」と短く返事した。
シュウは
から事情を聞きたかったが、
とりあえずサウザーと共に宿に案内してもらった。
宿についたからといって、することは何も無い。
今から戻るにしても、時間がよくない。
サウザーはこの辺りに来るのは初めてだとかで、
バイクを借りて見回りに出てしまった。
その隙に、シュウは再びフドウの家を訪ね、
に面会を求めた。
応接用のソファやテーブルがある部屋で待っていると、
は一人でやってきた。
「子ども達の世話は良いのか?」
「うん。
話があるだろうって父さんが見てくれてる」
「そうか。
彼には今回えらく迷惑をかけてしまったな」
遠くからどすん、と大きな音がして、
豪快な笑い声が聞こえた。
子ども達とフドウが遊ぶ様子が目に浮かぶようだ。
「大丈夫だよ」と
は小さく笑って向かいの席についた。
声もどこか曇りがちで、おそらく意気消沈しているのだろう。
つい先日皇帝の街で会ったときのような元気は感じられない。
「ところで、サウザーの事なのだが。
何かあったのかな」
そう切り出すと、やはり沈黙が訪れてしまった。
何か言いたいことがあるような雰囲気ではあるが、
言葉が見つからない、といったところだろうか。
「……前に、シュウに会いに行ったとき、裏庭で会ったの。
ふざけたことを言うから、突き飛ばして逃げた」
待ちに待って、出てきたのはそんな説明だった。
大まかにしか説明しないのは、
何か隠したいことがあるのかもしれない。
それを暴く必要性は、今は無い。
「そうか。
は彼が南斗鳳凰拳の伝承者だと知っているかな?」
「え」
即座に、短い声が漏れる。
知らなかったのか。
確かに、サウザーが伝承者となった頃には、
はほとんど道場にも寄り付かなくなっていた。
その後しばらくして、彼女はフドウに預けられたのだ。
「本当に、あのサウザー?」
「そう、彼が将星のサウザーだ」
「あのホクロ野郎…」と、吐息に混じってつぶやくのが聞こえた。
つい、笑ってしまう。
南斗聖拳の使い手にとって、
サウザーとは頂点に立つものに等しい。
そんな物言いをする者は、表立っては皆無である。
その後話を続けてみても、
から新しい情報は得られなかった。
そういうことは、シュウの得意とするところでもない。
無理に話を引き出すことはせず、シバの様子を聞いて、
シュウはフドウの家を辞した。
宿に戻ると、サウザーは既に戻っているらしくバイクが停めてあった。
プライドの高い彼のことだから、許せなかった部分もあるのだろう。
子どもの喧嘩を見ているような気持ちになる。
シュウは微苦笑しつつ割り当てられた部屋に戻った。
サウザーは父であり、師であるオウガイのことを思い出していた。
技を覚えればやさしく褒め、
間違いは厳しくただし、
唯一、サウザーが尊敬する人。
になでられていたシバの顔。
自分もあんな顔をしていたのだろうか。
考えはとりとめもなく流れていく。
部屋のベッドは普段使っているものとは比べ物にならないくらい硬かったが、
外出するときは、そういうものだろうとも思う。
ごろりと寝転がって、目を閉じる。
やけに、オウガイのことを思い出す。
否、思い出さない日は無かったが、
今は焦燥感のようなものがある。
どうせ、最終戦争は起こる。
世は乱れるだろう。
そのとき、己の勢力が保たれていたならば、
覇を唱えてこの世の富と権力を手中に収めるのだ。
そうして、オウガイと、
オウガイを慕う己の弱い心を墓の下に埋めるのだ。
お師さんにふさわしい、立派な墓の下に。
厳しくて、優しいお師さん。
次の日、
は朝から喧嘩をした子どもの仲裁に巻き込まれた。
皆が庭先で遊び、
が食器を洗っている僅かな間のことである。
こういうとき、フドウはまったく叱らないから、
いつも
のところに話が持ち込まれる。
庭先に出ると、年上の子ども達とシバが二人の間に入り、
殴りあいをとめたところだった。
子どもの喧嘩など、いつでも他愛ない理由で始まってしまう。
似たり寄ったりな理由で、
毎日のように喧嘩できるその体力が不思議で仕方が無い。
「リキがいきなり殴ったんだ!」
「だって、レツが馬鹿にするから!」
を見て、二人は口々に互いの罪状を叫ぶ。
しばらく待ってみたが、最初の言葉以上の理由は見あたら無かった。
「リキ、自分のために暴力をふるってはいけないって言ったでしょ?」
がそういうと、リキはぐ、と言葉につまり、
レツはにやりと笑った。
「レツ、あなたはどうしていらないちょっかいをかけるの?
言われたら腹が立つこと、あなたは我慢できるの?」
今度はレツが言葉につまる番だった。
「どちらも悪い。
謝りなさい」
レツとリキはお互いに泣きそうな顔で、「ごめんなさい」と言った。
よく見てみると、二人ともいつもよりも怪我が少ないように思われる。
シバの防御の練習に参加していたことが原因だろうか。
はふ、と笑って二人を抱きしめた。
「二人とも大事なフドウの父さんの子どもだもの。
ちゃんと謝れてえらい、えらい」
ベンチに座って様子を見ていたフドウが、にこにこ笑っている。
彼も拳法を使う男(らしい)ので、
喧嘩に対して寛容すぎるきらいがある。
どうにかして、女手を増やさねばと
は心に固く誓った。
喧嘩もひと段落したので、
柔軟体操でも始めようか、と
が思ったときだった。
門のところに旅装の二人の男が立っているのがわかった。
遠目にもシュウとサウザーとわかり、
やっと帰ってくれるのかとほっとした。
「おや、お二人とも、もうお帰りになられるのか」
同じように気がついたフドウが、
ゆっくりと立ち上がって二人に近づいた。
彼の前に立つと、大柄な二人でもずいぶん小さく見える。
「フドウ、世話になったな」
シュウのやさしい声が聞こえた。
シバには悪いが、しばらくは会えないだろう。
彼も忙しい身であるし、
そんな中で仕事を空けてきているのだから。
「いやいや、何も無いところで、
ご不便をおかけしたことでしょう」
「突然おしかけたのはこちらだ」
そんな大人の会話に、
サウザーが割って入った。
「フドウ、ひとつ頼みがあるのだが、良いか?」
「応えられることであれば」
「
を雑用に借り受けたいのだが」
は突然の話に驚いて三人を注視した。
シュウも聞いていなかったのか、珍しく驚いた様子である。
フドウにいたっては背中しか見えないが、
きっと目をぱちくりとさせていることだろう。
「いやあ……
は見てのとおり、この子達の良い姉で、
居なくなると大変困るのです」
無理だ、とフドウは断ってくれた。
「シバもこの村に馴染んでいるようだし、
しばらくこのままにしてあげたいのだが」
シュウも横からフドウに加勢する。
「女手が足りぬなら、寄越してやろう。
それならば問題あるまい」
勝手に話を進められそうだったので、
は慌てて口を挟んだ。
「嫌です。
私は子ども達の世話がありますし、
シバに拳法を教えると、シュウとも約束したんです」
「ならばシバもつれてくるが良い。
鍛錬する施設ならばいくらでもある。
ここへ引っ込んでいるよりは為になるはずだが?」
サウザーは勝ち誇ったように顔を歪ませた。
は何か反論したかったが、すぐに思い浮かばなかった。
フドウはどうしたものか、と悩んでいた。
確かに、
には街に出てほしいと思う。
それは出て行ってほしい、というわけではなく、
若者らしく、時を過ごしてほしいという親心である。
ユリアにとってのケンシロウのような、
そんな相手を見つけてほしいとも思う。
しかし、その相手は間違ってもサウザーではない。
なぜ
に執着しているのかわからないが、
一歩間違えば彼は
を殺す。
それは避けたい。
そもそもシュウに引き合わせたのは、
互いに同じような親心を持っていたからで、
過酷な環境へ陥れるためではない。
「ここに居たいって、言ってるんです。
人は他にいっぱいいるでしょ」
は怒っている。
サウザーに対して、そんな口を利く人間はいない。
少しはらはらするが、サウザーは怒らない。
面白がっているようだ。
「ずっとここに居るんです。
早く帰ってください」
にやにや笑っているサウザーに対し、
はフドウの後ろから今にも石でも投げそうな勢いである。
『ずっとここに居る』。
それは嬉しい言葉だが、フドウの本意ではない。
本当に困った。
シュウは迷っていた。
のことだから、『ずっとここに居る』と言ったならば、
ずっと居るつもりなのだろう。
その昔、シュウが
に拳法を教えていたころを思い出す。
「毎日、この鍛錬を続けるんだよ」と教えると、
は文字通り、サボりもせず、本当に毎日続けた。
それは継続していたらしく、
シバを教える動きは、
何年も拳から離れていた人間の動きではなかった。
自分にシバを与えてくれた女性のような、
ユリアが心を開いたケンシロウのような、
たった一人を
にも見つけてもらいたい。
そう思って呼び寄せたのに。
しかし、サウザーがこれほど執着しているならば、
逆に頑固な
を連れ出す理由としては同じくらい強い。
そうだ。
には悪いが、
他に彼女を連れ出す理由が思い当たらなかった。
いずれサウザーは飽きて、解雇なりするはずだ。
「サウザー、
を連れて行くには条件がある」
シュウの言葉に「ほう?」とサウザーは片眉をあげた。
フドウは何も言わず、
はシュウを捨てられた子犬のような目で見ている。
「半日は私のところでシバの教育をお願いしたい。
半日は君のところで雑用を任せればよいだろう。
私もシバと会えるならば、それが嬉しい。
、来てくれるかな?」
サウザーは少し考えたようだったが、
断固拒否の構えを見せていた
を連行する面倒を考えたのか、
「まあ良かろう」と言った。
フドウは完全にサウザーの手元に置かれることは無いという部分で、
一応の賛成を得ているようで、何も言わない。
そもそも街に出したい、と願ったのは彼も同じである。
問題は
自身だが、
シュウとサウザーと、フドウの顔を順番に見て、
迷っているようだった。
そして、しぶしぶ「それで良いです」とぽつりと答えを吐き出した。
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