spectrum
次の日、
の寝覚めは最悪だった。
鏡を見て、まだ傷跡が残ってるのを確認してげっそりする。
首が覆われた服を選び、着替えを済ませてから朝食を頂く。
フドウの帰りを待とうかと思ったが、
さっさと用事を済ませておくべし、
と街へ出ることにした。
細心の注意を払って、
フドウに頼まれた日用品を買う。
子供用の服は、格安で入手することができた。
荷物は一緒に来てくれたフドウの部下の一人、ユウトが持ってくれる。
彼は自分の子どもをフドウに助けてもらったとかで、
その子がもうすぐ成人するんですよ、
などという幸せいっぱいの話をたっぷりしてくれた。
余ったお金で、シャツを一枚買った。
そして、鍛錬するときに着るような、
動きやすい服を一揃い。
必要なものを買い揃えて、すぐに家に戻った。
フドウはまだ戻っておらず、
家政婦は明日の昼ごろ戻ると聞いた、と教えてくれた。
しばらく逡巡した後、
は手紙を二通書いて、
一通はシュウに宛てて、ユウトに持って行ってもらうようお願いした。
なんとなく嫌な予感がするので、
フドウの村に戻ることにする、と伝えるためである。
もしよければシバを明日の朝にフドウの家まで来させてほしい、と。
もう一通はフドウ宛てで、
事情があり村に先に帰るという内容である。
それらを書き終えてから、
は猛然と帰る準備を始めた。
屋敷に置かれていたバイクを拝借することにして、
管理人に動かせるように準備をお願いする。
荷物は最小限にとどめて、
自分の荷物と、シバが来るならば彼の分も乗せられるようにする。
あのホクロ野郎の目を思い出して、
は薄ら寒いものを感じていた。
あれはいけない。
近寄ってはいけない。
そうこうしているうちにシュウからの返事を持って、ユウトが帰ってきた。
シバを明日の夜明け頃に連れて行く、とのことだったので、
こちらはひと段落である。
買ってきた日用品や衣料品は、
フドウに片付けを任せるのも問題なので
の手で箱詰めした。
きっちり隙間なくつめて、あとはトラックにのせるだけ、
という状態にしておく。
家政婦には携帯食の準備をお願いした。
備蓄の中から適当なものを用意してくれたので、
シバと二人分くらいならなんとかなるだろう。
それらの準備が終わるころにはとっぷりと日も暮れていた。
次の朝、
シュウは約束どおり日の出の頃にシバを伴って現れた。
その顔はいつもどおり頬笑みがたたえられていたが、
どちらかというと少し悲しげであった。
「呼び出して悪かったな。
何かあったのか?」
「ううん、大丈夫。
でもやっぱり、フドウの村に子どもたちを置いてきているし。
シバには悪いことしちゃったけど……
お母さん、怒ってない?」
がシバに尋ねると、
彼は笑顔で首を振った。
「街の外に出ることなんてあんまり無いので、
とても楽しみです」
本当に楽しみだ、という顔をしていたので、
はシバの頭をぐしゃぐしゃとなでてあげた。
「じゃ、行こうか」
またね、と短い挨拶をして、シバの荷物をバイクの荷台にくくりつけた。
モトクロスなどをするよりは、
だだっ広いまっすぐな高速道路を走るタイプのバイクである。
シバにしっかりつかまるよう教えて、
はさっさとフドウの家を、
皇帝の街を脱出した。
それからほぼ不眠不休で、
は村まで帰った。
到着するころにはシバはもうぐったりしていて、
罪悪感がちくりと
を刺した。
それから丸一日、眠り続けて、
ようやく村での毎日が戻ってきた。
「こら、好き嫌いしないの!」
「こら、早く着替えなさい!」
は子ども達をしかりつけながら、
朝食の後は掃除班には掃除を、洗濯班には洗濯を手伝ってもらい、
その後は少し勉強も教えた。
それらがひと段落ついたころ、
ようやくシバと鍛錬の時間をとることができた。
彼はよくしつけられていて、
まるで小さいシュウを見ているような気がするほどだった。
「
さん、鍛錬って何をするんですか?」
期待に胸を膨らませている彼には申し訳ないが、
最初にすることは決まっている。
「最初は、怪我をしない体をつくります」
柔軟体操に、防御の稽古。
練習を続ける上で、それらは一番重要なものである。
庭のすみっこで、二人で向かい合って立っている。
他の子ども達は思い思いに遊んでいる。
同じ年頃でもあるのに、本人も望んでいることではあるけれど、
少しかわいそうに思う。
「わかりました」
シバは意気込んで、そう返事した。
そういえば、自分も昔はシュウに同じように返事したのだった。
体を暖めるべく少し走ってから、筋を伸ばす。
シバは子どもだけあって、まだまだ体が柔らかかった。
次に、防御である。
流れを説明し、基本的な形を教える。
まだ、攻撃を受けるもっとも基礎的な防御だけである。
勢いを殺して攻撃に転じるだとかは、
まだまだ先で十分である。
そういう一通りの流れを終えたところで、
少し休憩を取った。
その間に、
は適当な型を見せることにした。
上段蹴りを左右一度ずつしてから、
地面に手をついて、開脚しつつくるりと回る。
起き上がって、反動を利用しつつ回し蹴り。
ふわり、と両足を地に着ける。
「うわぁ…!」
遊びに飽きた子ども達が、その頃にはすっかり集まっていた。
が動きを止めると、拍手が起こった。
「シュウから最初に教えてもらったの。
これをマスターしたら、白鷺拳の基本はできたも同然。
……なんてね。」
シバの目がきらきらと光っている。
彼もまた、昔の
と同じくシュウの背中を追っているのだろう。
「はい、じゃ、やっぱりもう今日はこれで終わり。
後は皆で遊ぶ!」
「鬼ごっこがいい!」と一人が叫んだ。
それから、子ども達とシバ、
の鬼ごっこが始まった。
次の日には、シバ以外の男の子達が鍛錬に参加を申し出た。
その子達ともシバはすぐに打ち解け、
年相応の笑顔を見せてくれた。
やっぱりつれて来て良かった、と
を安堵させた。
そんな目の前の幸せに気をとられて、
は迫り来る恐怖にまだ気づいていなかった。
「女?」
シュウが顔を上げると、
サウザーは怒り半分、興味半分といった声で「そうだ」と言った。
彼がシュウの部屋を乱暴に開け、
最初の一言は「お前のところに二日ほど前に女が来ただろう」である。
どこをどう調べたのだろうか、
まさかサウザーが聞いてまわったのだろうか、
と思ってふと笑みを浮かべた。
二日前といえば、フドウの村から久々に
が出てきていた。
そして、シュウの部屋を訪ねてくれた。
そして今朝、シバをつれて街を出たところだ。
シュウは「うむ」とか曖昧に返事した。
サウザーの声音から考えて、あまり良い話ではないのだろう。
「それを探している。
そもそもあの女、何者だ?
お前と同じ白鷺拳を知っているのか?」
どうやら
はサウザーに会ってしまったらしい。
何を話したのかはわからないが、
ともかく急いで村に帰った理由のひとつがわかったような気がした。
「確かに来客はあった。
昔、彼女は男として育てられていてね。
その頃、私の師匠のところに連れてこられたんだ」
「それがどうかしたか?」とシュウは尋ねたが、
サウザーは返事をしなかった。
「名は」
「
という」
「今どこにいる」
「サウザー、彼女が君に何か失礼でもしたかな?」
「所在を知っているのか」
「可愛い妹のようなものでね、
できれば身の安全くらいは保障してあげたい」
常に無く、強い口調になってしまった。
サウザーは少し間をおいてから「殺しはせん」と言った。
これ以上いたずらに居場所を伏せていても、
サウザーの機嫌を無駄に悪化させるだけである。
しかし、自分ひとりで彼を止めるのはほぼ不可能である。
まずフドウにも知らせねば、という思いから、
シュウはフドウの屋敷に居ると答えた。
嘘ではない。
この街の屋敷ではないだけだ。
サウザーは事前に準備をしていたのか、
将軍としての仕事は全て終わらせており、
シュウを引き連れてフドウの屋敷へとすぐに向かった。
もちろん
はそこには居ないが、
代わりにフドウが居た。
サウザーは忌々しげに「
という女はいるか」と尋ねると、
フドウはシュウをちらりと見て、
「村に戻りました」と答えた。
「これから私も戻るところですゆえ、
ご案内いたしましょう」
フドウはにっこりと笑った。
ついてきた意味を彼が察してくれて、本当に良かった。
サウザーは、目の前を走るフドウのトラックを睨み付けていた。
己のうかつさが思い出すだに腹立たしい。
下賤の女が、南斗の極星にあろうことか。
(頭突きなど…!)
さらに、突き飛ばし、そしてまわし蹴りをした。
それはサウザーが服を掴んだために生じた回転の力を使って、
己の持つ力以上の威力を出していた。
加えて、サウザーが捕らえようと再度手を伸ばしたときには、
もう逃げ出していた。
思い出して、またじんわりと額が痛んだ。
不意打ちであったために、
たかが頭突きでも激しい痛みを感じた。
『やって良いことと、悪いことがある!』
まるで子どもに叱るかのような口調で。
誰に向かって口を利いているつもりなのか。
何を心配してか、シュウも同行している。
『身の安全くらいは保障してあげたい』と決然と言ったとき、
曇りがちな仁星の光が一瞬強く輝いたような気がした。
サウザーは、
を殺すつもりは本当に無かった。
それこそ恥ずべき出来事ではあった。
しかし、そのこと自体が腹立たしいわけではない。
むしろ、今まで会った従順なだけの良い女よりも興味深い。
いうなれば、珍獣を見つけたような気がしたのだった。
サウザーを前に、直接意見を具申するのは六聖拳の人間か、
北斗の長兄ラオウくらいなものである。
それを無名の女が。
(頭突き……!)
先ほどから思考がループして、まったく前に進まない。
そんな状態のサウザーを乗せて車はひた走った。
途中で休憩を挟んだり、
フドウの方のトラックが給油しなければならないだとか、
安全運転で帰らねばならないとか、
飛ばした割りに時間がかかってしまった。
「こちらです」
と、フドウが慇懃な態度でサウザーを案内する。
フドウの村といっても、他の村と大差ない。
少しばかり建物の状態が良いような気がする、という程度だ。
頑丈そうな門を開けると、中庭にたくさんの子どもが居た。
遊んでいるわけではなく、
真ん中の方で円を描いて座っている。
その円の中に、頭突きの女、
と少年が立っている。
がゆっくりと蹴る素振りを見せると、
少年は拙い様子でそれを防ぐ構えを取る。
「はは、シバに感化されて、
皆拳法に興味を持ってしまったようですな」
フドウが小声でつぶやいた。
は今度は反対の脚で蹴る素振りをし、
少年はそれをまた、たどたどしく防ぐ。
今度は軸足はそのままに、頭上からゆっくり脚を振り下ろすと、
それを受け止めるような姿勢に慌てて変わる。
「そう!
それ、完璧!」
が少年の頭をわしゃわしゃとなでた。
驚くべきは、彼女の体重移動の滑らかさと、軸のぶれなさだろうか。
ただ、あまりにも緩慢な動きのために、
その実力を推し量る目安にはあまりならない。
言うなれば、形だけは整えられているというくらいだろうか。
鍛錬であって、実践ではない。
ふと、頭をなでられている少年がこちらに気がついた。
よく見ると、それはシュウの息子のシバであった。
「父さん!」
その声に、子ども達が一斉にこちらを見る。
も見る。
そして、顔色が一気に変わった。
「父さんだ!」
「フドウの父さんだ!」
わ、と子ども達が走ってきてフドウに向かって走り始めた。
それとほぼ同時に、サウザーも駆け出していた。
子どもを蹴飛ばしそうになるが、そんな事にかまっていられない。
今度こそ逃がさない。
はくるりと向きを変えて逃げようとする姿勢を見せたが、
気づいてから行動に移すまでが遅すぎる。
サウザーは
の腕を捕らえた。
そして、ひねりあげる。
「っ……!!」
造作も無い。
なぜ、あのときは逃がしてしまったのか。
ふと、このまま殺してしまおうかと思った。
相手は無抵抗で、細い首は目の前である。
しかし。
シバが照れくさそうに、しかし嬉しそうな顔をしていたことを思い出した。
は彼の師。
力を入れた拳を、サウザーは所在無げにまた開いた。
「サウザー。
そのままでは腕が折れてしまう」
ようやく追いついたシュウの声で、
サウザーは我に返った。
手を離してやると、
はシュウの後ろに身を隠した。
「
が何かしたのかな?」
子ども達を肩にのせたフドウが、ゆったりとした足取りで近づいてくる。
早くも、
を殺さなかったことを後悔し始めていた。
←
戻
→