居場所


毒殺未遂事件の後もは毎日のように墓に参り、
簡単な掃除をしている。
事件らしい事件がなければ、何の起伏も変化も無い毎日である。

ふと顔を上げると、監視の修羅は誰かと親しげに話している。
こちらに背を向けて。
彼も退屈だと感じる一人なのだろう。

は完全に一人であった。

そっと、水を汲む桶を持って井戸に向かった。
そこから修羅の姿は見えない。
井戸の傍に桶を置いて、は墓場を出た。

が最近歩き回っていたごく狭い範囲を出て、
他の人間が居住する区画に出た。
いつも誰もに声などかけなかったが、
そこから出ても、
誰一人としてに声をかける奇特な人間などいなかった。

女官らしい格好をしているからだろうか。
以前から同じ服を着ているので、
誰も奇異な目で見ることは無い。
似たような格好の女官が、他にも数人歩く姿が見える。

(逃げられる)

はそう確信した。

まるで用を言いつけられた女官であるかのような顔で、
は逃げる算段をしながら歩いた。
このネックレスがあれば、それなりの金にはなるだろう。
車なりバイクなり、足を手に入れさえすれば遠くへ逃げられる。

『俺の前から消えてくれるなよ?』

カイオウの言葉が思い出された。
すこし寒気を感じたが、
彼が本気でそう言っているとは思えなかった。

『カイオウはのことが大切なんだ』

あの、カイオウの小さい頃を思わせる何かがそういっていたが、
そんなものはまやかしだ。
兄弟ですら、あれほど嫌っているというのに。

そんなことを思いながら歩いて、ふと気がついた。
どこへ逃げれば良いのだろうか。
唯一の肉親である兄は死んでしまっているし、
その兄と住んでいた家は既にカイオウが管理を手配している。
その集落のどこかへ逃げ込んだところで、
家に帰るのと大差は無いだろう。
つまりはカイオウの手の内である。

そうだ、ヒョウの城へ。

ヒョウの城であれば、カイオウが好んで向かうことも無いだろう。
きちんと説明をすれば、ヒョウも助けてくれるかもしれない。
他に頼るあては無い。

城の近辺の市街地へ続く門をくぐったところで、
背後が騒がしくなった。
は大通りから逸れて、路地に入った。
土地勘は無いので、大通りからはそれほど離れないようにする。

市街地に出ると、今度は逆にの姿は目立ってしまうようだった。
確かにの格好は、ふつうの街の人間としては浮く。
なんとか食いつないでいるのだ、という人間から見ると、
よほど上等な服を着ていたのだということを思い出した。

「あそこだ!」

背後から声が聞こえた。
は更に路地の奥に入って、何度か角を曲がった。
見つかるわけにはいかない。
折角の機会なのだ。

無心に走った。
走る筋力すら衰えていて、脚が悲鳴を上げている。
肺が上手く酸素を取り入れられず、くらくらする。

どかかっどかかっ

近くで馬の蹄が地面を蹴る音がする。
は近くの半開きの門の中に転がり込んで、戸を閉てた。

蹄の音は先ほどより近付くことなく、遠ざかっていった。
どうやら、騎馬の誰かの目はかいくぐれたらしい。
はへなへな、とその場に崩れ落ちた。

「ど、どうかしたのか?」

家主らしき男が驚いた様子でこちらを見ている。

「カイオウの手の者から逃げているのです。
 どうか、着替えを貸してください」

男はじろじろとの様子を伺っている。
はその腕を必死で掴んだ。

「お礼はします。
 ダイヤモンドは、高く売れますよね?」

服の中に隠していたネックレスを引っ張りだすと、
家主は笑い出した。

「……お嬢さんは運が良い。
 俺は反カイオウの勢力の一人なんだが、金が無くてね。
 脱出させてやるから、そのネックレスを全部くれよ」

交渉が成立した。
家主は着替えを用意してくれた。
粗末な物だったが、今はそれが一番良い。

「どうして信じていただけたのですか?」

が尋ねると、男は笑った。

「そんな嘘をついて殲滅しに来る輩にしては、
 お嬢さんはか弱すぎるからさ」

そう言われると、納得してしまう。

「お嬢さんこそ、どうして俺のことを信じてくれるんだ?」

なぜか、という理由は無い。
何の根拠もなく、溺れる者が藁を掴むがごとく。
には他人を見極める目など無い。

「賭けです」

そう言うと男は腹を抱えて笑った。

「剛毅なお嬢さんだ。
 別な拠点へご案内して差し上げよう。
 そこからなら逃げられると思う。
 対価が発生するなられっきとした依頼だしな」

男はも門の外の様子を確認してから、を連れて裏道に出た。
修羅が街中をうろついているが、
着替えたに目を留める者は居ない。

そうして人が住む区画の端にある車庫に入った。
暗くなってから外へ逃げ出す手はずになっているらしい。
ネックレスは、そのときに渡すことにした。
男は一度家に戻ると言い残して去り、は一人になった。

ほう、とため息をついた。
脚が痛むが、それも逃げ切るまでの辛抱だ。
燃料が補充されているのを確認して、
安堵して少し眠った。

目が覚めると、辺りは真っ暗だった。
車庫の中に人の気配は無い。
はネックレスを引っ張ってみたが、どうにも外すことは出来ない。
自力で外すことを諦めて、窓から外の様子を伺った。

外はとても静かだった。
灯りも殆ど無い。
人の気配も無い。

かちり、とドアの鍵が開いた。
あの家主だろうかとは振り返った。

「久しぶりだな?」

低い、低い声がした。
怒りを押し殺したような、地底から響くような声。

「カイオウ様……?」

ドアを開けて、入ってきたのはカイオウだった。

「口を割る前に死んでてしまったから、思いの外手間取ったわ」

カイオウが何かを投げた。
ころころと転がってくる。
の足元まで転がってきたそれは、待っていた男の首だった。

「さて、
 ここでお前に選ばせてやろう。
 ここで死ぬか、戻るか」

カイオウの怒りがに向けられている。
やはり、ヒョウはどこかおかしいのだ。
は恐怖で脚が震え、その場に座り込んだ。
目の前に転がっていた生首と目が合い、慌てて後ろに逃げた。

「どちらにする?」

恐ろしい。

カイオウは顔だけ笑っているが、
本心からの笑みではないことは明白である。
殺気に背筋がひやりとする。
いけない。
これは、本当にいけない。

殺されてしまう。

カイオウが近付いてくる。
恐怖はセンの比ではない。
口が上手く動かない。
焦る。
焦ると、余計に口が渇いて上手く声が出ない。

大きな手が伸びてきて、に触れる前に、
はようやく答えた。

「も、戻ります」

ぴたりとカイオウの手が止まった。

「……そうか。
 二度はない」

カイオウが手を差し出したままにしていたので、
はその手を借りて立ち上がった。
立ち上がったを、カイオウは力いっぱい抱きしめた。
痛い。
肋骨どころか背骨まで折れてしまいそうだ。

この腕の中が自分の居場所だ、
などという冗談のような思いがの脳裏をかすめた。
本当に笑えない冗談だった。