花腐し
勝家は今回落とした城に残す兵と将を選別し、
安土に連れ帰る兵をまとめ、出立の準備をさせた。
信長がいるときは彼が思い立ったときに移動を開始するが、
今日はまだその沙汰も無い。
は昨晩職務を放棄した。
連絡に来た兵士に理由を尋ねると、
えらく微妙な顔で「殿とおいででしたが」と言っていた。
信長が
の気持ちを受け取るとは思っていなかったので驚いた。
出立の沙汰が無いのは
を気遣ってのことなのだろうか。
だとしたら、
に感謝せねばならない。
おかげで少し時間に余裕ができたので、
休むことができた。
安土に戻る途上、信長には全く変化は見られなかった。
は酷い顔色をしていた。
悩んでいる、のだろうか?
思いを遂げて?
(随分と贅沢な悩みをお持ちだな)
勝家はそう思った。
自分は慕うばかりで、手が届くことすらなかった。
挙句、手に入れるために反旗を翻したがそれも失敗に終わった。
永遠に手の内から逃げてしまった、市と未来。
……今更後悔しても詮無きことである。
ともかく、
には恩を売らねばならない。
体調を心配してやり、
彼女の代わりに出立の準備を整える指示も出した。
道中も上の空であったので、雑務は全て勝家がこなした。
贅沢な悩みだと嫉む心はあるが、
彼女だけが勝家が織田軍の一員として認められるための唯一の人だ。
信長が手を出したというのならば、
その目的には一歩近付いた可能性が高い。
あとは光秀にどう伝えるか、である。
信長から
を引き離そうとしていた節もある。
手篭めにしろとまで言う程度に警戒していた訳であるが、
その懸念は現実の物になった。
もし現状を知れば、光秀は行動を起すだろう。
を殺すか、暗殺するか、
ともかく彼女が出仕できないような何かを考えると思われる。
ここで問題なのは勝家の口から報告を入れるか、
別の人間から受け取るか、という点である。
前者であれある程度罵られるだろうが、
一応の義理は立てたことになるだろう。
何の行動も起さなかったが、
監視するだけしてその報告を早急にしたからである。
後者であればただ、罵られるだけだろう。
さらにその後、勝家は誰につくかを考えねばならない。
光秀が
を排除する行動を起こしたとき、
彼女を助ければ彼女からの評価も、
ひいては信長からの評価も上がるかもしれない。
見過ごすか光秀に加担すれば、光秀の評価が上がるかもしれない。
勝家は光秀に報告することに決めた。
決めた上で、
の身の危険があれば助けることにした。
光秀相手であっても2対1であれば、
何とか逃げることくらいは出来るだろう。
あとは彼女が信長に庇護を求め、
勝家の働きを報告してくれるだけで良い。
城に帰還し、
はつかの間の休息を満喫した。
勝家が気を回して休めるようやりくりしてくれたおかげである。
理由が理由なだけに非情に申し訳ない。
道中も随分と助けてもらった。
家でのんびりしていると、
あの夜のことが嘘だったのだろうという気がしてきた。
信長が侍女に手をつけたという話なんかも聞いたことはないし、
そもそも濃姫以外の女なんて見たことも聞いたことも無い。
信長の気の迷いだ。
ただ、手近にいたから。
そんな物だったのだ、と考えるとすっぱりと諦められそうな気がする。
そう自分を納得させたところだったので、
出仕して城に部屋が用意されているという話を聞いて、
目玉が飛び出るかと思う程驚いた。
光秀は既に全てを知っている様子で、
「随分なご活躍で」と笑っていた。
その笑みが恐ろしかった。
恐ろしかったが、断る気にはなれなかった。
魔王の方が恐ろしいからだろうか。
違う。
畏れ、憧れ、慕う。
無関係なように思える感情が、
信長に対しては渾然一体となっている。
恐ろしいなどという単純な感情ではないが、
一面では当たっている訳で、
は己の思考のまとまらなさに苦笑するしかなかった。
こんなことになるくらいなら、最初に殺しておけばよかった!
光秀は叫びだしたい衝動にかられたが、
そういうものはいつだって飲み込んできたので、
今回も上手く飲み込んだ。
せっかく帰蝶と蘭丸を隔離し、
信長を純粋に暴力の権化とし、
魔王という恐怖の象徴のような存在にすることができたのに。
のせいで全て台無しである。
それに、勝家の動向も少しおかしい。
彼も
に肩入れしている様子がある。
報告は迅速だったが、
結局彼は何も働かなかった。
手篭めにすることも、殺すことも。
次の戦は大きな戦になる。
信長も満足してくれそうな、大きなものである。
兵の質は心もとないが、とりあえず量は保障されている。
その説明をした後、光秀は信長に言った。
「
のことを知れば、帰蝶が泣いてしまいますね」
嫌味である。
帰蝶が居ないのは光秀が原因であるが。
「帰らぬ蝶が何と言おうと、知ったことではないわ」
その言葉は帰蝶が戻らぬことを責めているようでもあり、
ある程度情を寄せているらしいことが分かったが、
を擁護している言葉でもある。
同じように姿を消させるにしても、
勝家が
に肩入れしているので地味に面倒になってくる。
光秀が彼女を目障りに思っていることを知っているからである。
疑いがかかれば、隠しておける場所には限りもあり、
帰蝶や蘭丸も発見されてしまうだろう。
は本当に目障りな女である。
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