花腐し


は此度の戦は将を務めるはずであったが、
事情が変わって再び副将に据えられた。
将は信長である。
分隊は勝家が率いる。

(光秀様も困っておいでだった……)

思い返すと、少し珍しい光景であった。
信長の気まぐれは散見されるが、
光秀が一瞬でも動揺するところが見られたのは貴重な体験である。

信長の気まぐれ。
それは予定外の出陣である。

ほんの思いつきで言っただけなのかもしれないが、
居てくれるとそれはそれで安心ではある。
信長に殺されかけたことは今の所幸いなことに一度もないし、
彼一人で敵を皆殺しにできるほど戦ってくれる。

不安に思うのは、光秀の態度である。
ここ最近、寒気を感じるような場面が幾度かあった。
別に鎌で斬りかかられるというような危険に遭遇したわけではない。
以前から不気味な笑顔であると思っていたが、
それ以上に殺意のようなものを感じるのだ。

別に信長が守ってくれるとは思わないが、
居るだけで光秀の恐怖など吹き飛んでしまう。
そういう存在である。

「露払いをして見せよ」

信長が言う。

「はい」

はそう返事をした。

本来は勝家が囮で、が本体を叩く予定だった。
それが信長の意向で変更された。
てっきり虐殺を楽しみたいだけなのかと思ったが、
どうにも違うらしかった。

どういう意図があろうとも、
は命令を達成するべく全力を尽くすのみである。
濃姫や蘭丸のように華麗に責務を果たせるとは思わないが、
できることをするしかない。

街道を進み、
魔王が手勢のみで進軍しているという情報に、
おびきだされた敵の軍勢が見えてきた。
は信長の前に進み出る。

「往けいっ!」

信長が叫んだ。
は全力で戦場を駆ける。
走りながら、二丁の銃を乱射して粗方敵を倒す。
敵に接近してからは一丁をホルスターに戻し、
鍛錬を積んできた戦法で一人ひとり殺していく。

敵は返り血を浴びながら進むを見て恐怖している。
肝の小さい奴らである。
の後ろにはその何倍も恐ろしい魔王が控えているというのに。

敵を潰走させるまでに多少時間がかかったものの、
は露払いの役目を全うできたようだった。
信長は悠然と背後を進んでいる。
目の前を逃げてゆく敵を追いかける途中で、
先に城を落とした勝家の軍と挟み撃ちにすることができた。
完勝である。

勝利を祝うささやかな宴は、
陥落させたばかりの城で行われた。
信長は特別席を設けて一人で飲んでいる。
誰も同席したがらないだろうという配慮だろうか。
は宴の運営に手を貸しつつ、
その信長の様子を時折眺めた。

濃姫は信長のことを手放しに賞賛していた。
少し怖いところはあるけれど、破格の人である、と。
常人には評価することもできない人物だ、と。
最初は恐怖しかなかったが、今はその考えに賛成できる。
濃姫が恋い慕い、心を痛めながらも戦場に同行したのも納得できた。

それほどまでに無類の強さを持ち、そして負けない。
恐怖の権化のようでもあるが、
目をかけている人間に対しては度量が広い。
主君として、仕えるに値する人間だと思えた。

それ以外に、には雑念もあった。
信長が見る世界を傍で見てみたい。
そして少しでも彼の視界に入りたいと願っていた。
自分はただの雑兵ではなく、一人の人間であると認めてもらいたい。
まるで恋をしているようだという自覚はある。





光秀の目的はを遠ざけるということだったが、
信長の気まぐれでその計画は頓挫した。
そのおかげで勝家は信長と共に軍を動かすことができた。
働きを見てもらえただろうか。
このような機会が得られるならば、
にはもっともっと強くなってもらわねばならない。
その思いを新たにした。

そのが信長に侍る姿を見て気が付いた。
彼女が信長を見る目に、自分が市を見ていたのと同じものを感じた。
認められたい、目に留まりたい、そして言葉をかけてもらいたい。
そういう視線のような気がする。

己が市を見ていた姿は、ああいう風だったのだろうか。
それとももっと露骨だったのだろうか。
信長が気にしている様子は無い。
自分は市に気づかれていたのだろうか。

光秀はの変化に気がついているのだろうか。
彼は信長の変化以外についてはどうでも良さそうであるが。

(……私がいくら考えても、意味は無いか)

勝家は思考を停止した。
何せ、考えたところでどうにもならないことが多すぎる。






「そろそろ宴を締めようかと思いますが」

が下座から言った。
見下ろしてみると、兵士の姿が減っている。
そこかしこで倒れている輩も居る。

「左様せい」

「はい」

空には細い三日月が浮かんでいる。
あまり好みではない。

暫くしてが戻ってきた。
床の準備も出来ているという。

「今宵は私と柴田様で寝ずの番をしております。
 ごゆるりとお休みくださいませ」

そう言うの目に、信長は思慕の情を見た。
それと同時に憧憬の情を、
変わらず居座る狂乱を、
そして強大なる力に対する畏敬を。
それらを御しきれぬ混沌を。

予想以上に愉快な目をしている。
その混沌を手に入れたい。
そういう欲もあったのだと思い出した。

空の杯を突き出すと、は脇に置いてあった銚子をとった。
近寄り、銚子を傾けようとしたところで信長は杯を捨てた。
腕を掴んで引き寄せ、顎を捉えて上を向かせる。
信長を見上げ、呆けたような顔をしているの唇に、
己の唇を重ねた。

「……!?」

がびくり、と震えた。
舌を吸う。
飽く程そうしてから、顔を離した。
彼女の混乱が手に取るように分かる。

もう一度唇を重ねた。
ゆっくりと、執拗に。

「――…傀儡には一人で守をせいと伝えよ」

の表情の変化がめまぐるしい。
困っているのか、喜んでいるのか。