花腐し


信長が休むための場所を用意し、彼がそこに入り、
そしてにも短い休息の時間が与えられた。

一人で陣の隅に座っていると、全身が震える。
奥歯がかちかちを音を立てている。
両手で己を抱いて、震えが収まるのを待つ。

怖かった。
濃姫の横に立ち、眺めているだけの戦場とは全く違っていた。
以前は防戦していれば濃姫が近くの敵を一掃してくれたが、
今はが己の手で敵を屠らねばならない。

人の頭があんな風に爆ぜるとは思わなかった。
あんなに血が飛び散るとは思わなかった。
目の前で、恐怖にひきつった顔があんな風に。
今まで無意識に視界に入れることを避けていた光景が、
目の前で展開されていた。

弾が当たれば人は死ぬ。
引き金を引けば弾が出る。
人を殺すために引き金を引くのだ。
それは理解していたが、現実に目の前にすると呆然としてしまった。

幸いなことに、誰一人として勝家よりも素早い人間はいなかった。
だから辛うじて命を手放すようなことは無かった。
勝家には感謝しなければならないだろう。

しばらくじっとしていると、恐怖は少しずつ形を潜めた。
代わりに抗いがたい感情がわきあがってきた。
自覚するのが恐ろしいような、
目を逸らすのが勿体無いような。
この感情は何なのか。

「おやおや、大丈夫ですか?」

顔を上げると、光秀が目の前に立っていた。
銀色の長い髪がさらさらと肩から流れて落ちる。

「いえ……」

は曖昧に言葉を濁したが、光秀は引き下がらない。

「戦場とは恐ろしいところなのです。
 気丈に振舞っていましたが、帰蝶も心を痛めていました。
 何も恥じることはありません」

やけに親身である。
不気味だと感じるほどに。

「お逃げなさい。
 今なら、私が手助けをしてあげないことはありませんよ」

逃げる。
逃げる?

「ありがとうございます」

あの光秀が逃げるようにと言ってくれている。
それは本当に、心の底からありがたい。

「でも……大丈夫です」

最初のあの一撃。
思い描いていた、完璧な動作。
もう少しでつかめる。

それに加え、間近で見た魔王織田信長の力。
雑兵など物の数にも入らない、圧倒的な力。
の悩みや、勝家の裏切りや、光秀の策略など、
全てがちっぽけな物に思えるほどの存在。

「あと少しでコツが掴めそうな気がするんです。
 それに、信長様が最大限の力を出しているお姿を見てみたい、
 と思ってしまったんです。
 ですからもう少し頑張ってみようかと」

恐怖に抗う感情の正体は、の心に取り付いたのは、
魔王の絶大な力の影に対する興味だった。
憧れなのか、畏敬なのか、それ以外の何かなのか。
よく分からない。





自分と同じく魔に魅入られたのだろうか。
まだ震えながら、
自嘲するような笑みを浮かべるを光秀は見下ろした。

「そう――…ですか」

「生き残らねば見ることも叶いませんからね。
 あと少し。
 本当にあと少しなんです」

戦が始まる頃は死ぬだろうと思っていたし、
生き残ったところで逃げるかと思っていたのに。

「随分素敵な表情をしていますね」

「そうでしょうか」

「ええ、一軍を任せたいくらいです」

今のならば、信長のための捨て駒くらいにはなるだろう。
予想外である。

後処理は大まかな指示と共に勝家に押し付けて、
の様子を見に来て正解だった。
評価を改めねばならない。
しかしこのまま手駒として使えるか、
はたまた信長の妨げとなるかはまだ不明である。

勝家にはの相手を続けさせ、様子を見させよう。
駒として有益そうであればそのまま育てるし、
そうでなければ早目に手を打つほうが得策だろう。

「それほど強くなりたいですね」

は冗談ととったらしく微笑んだ。






かつん。

勝家はのど元に突きつけられた銃の音を聞いた。
弾が入っていたら勝家は死んでいた。

「これ、なんです。
 この動き」

たった一回の成功である。
これまで勝家は手甲ではじきそこねたを幾度と無く叩きのめした。
うまくはじいたところで、銃で顎を狙う動作が成功したのは初めてだ。
聞くところによると戦場で一度成功したというから、
正しくは二度目か。
じわりと背中に汗をかいた。

は勝家の顔を見上げていた。
自分は手を抜いた訳ではない。
先の戦以降、彼女の稽古に対する姿勢が変わったのである。
そして、今回の成功にこぎつけた。

「……忘れる前にもう一度試されますか」

「お願いします」

は距離を取って、再び構える。

彼女は勝家が失った物を手に入れようとしている。
手に入れられるその立場が羨ましい。
否。
嫉ましい。

(光秀様も一目置くからこそ、相手をするようお命じになったのだ)

織田軍の要職を占める人間とするために。
それが酷く嫉ましい。

濃姫が戻れば、彼女は元の位置に戻るのだろうか。
否、それは無い。
戦力になるならば全て使う。
使える物は万端整えて使う。
それが織田軍である。
はこのまま出世していくのだろう。

嫉ましい。
嫉ましいが、
勝家は自分でその立場を自分から捨てたのだと理解している。

彼女がこのままコツを掴み損ねてくれれば良いのに、と思う。
その反面、
彼女がコツを掴めば自分を評価してくれるのでは、とも思う。
態度を決めかねているが、
命じられたことでもあるし、真面目に稽古に付き合っている。

最近はが攻撃をはじく確率が上がってきた。
その後の処理は、勝家にとっても稽古になっている。
完全に無駄な時間という訳でもない。

様が私を引き上げてくだされば……)

雑念のせいか、にうまく攻撃をはじかれた。
集中しなければ。