愉快な武田軍ライフ
おうちに帰りたい。
ただその一念で、
は幾度となく躑躅崎館からの脱出を試みた。
昼夜を問わず、正面突破や見つけた抜け道を駆使してみたりだとか。
そういう努力は見事に水泡に帰した。
武田軍には有名な、あの猿飛佐助様がいらっしゃるからである。
いや、何度か死ぬかと思いましたよ。
仲間にくないをつきつけられるだとか、
罠の網に捕らえられてみたりだとか、散々でしたよ。
「あんたもめげないねー。
でも、早く諦めてくれないと、俺様も本気出しちゃうよ?」
にっこり、と笑ったその顔は観世音菩薩様のように慈愛に満ちた微笑みだったが、
その禍々しさは閻魔様よりもおどろおどろしかった。
「あはは、あははははは…!!」
引きつった笑い、というのが本当にあることが判った。
武田軍は色々な人生体験をさせてくださいます。
そんな楽しい武田軍ライフの中で、一番のポイントは乗馬の訓練である。
武田軍でも全国に名を轟かせている騎馬軍団であるが、
鳴り物入りで入隊した
は真田幸村が直々に教えてくれることになっている。
は佐助と一緒に、躑躅崎館からほど近い広場に向かった。
おかげさまで背中にくないが突きつけられている。
逃げ出そうにも逃げ出せない。
今頃、実家では何をしているだろうか?
春からの田植えに向けて準備をしているのだろう。
ご近所さんたちも元気にしているだろうか。
そんな、遠く離れたところに意識が飛んでいく事が最近よくある。
広場では幸村が馬に乗って待っていた。
ただし、普通に乗っている訳ではない。
上に立っている。
なんだか、もう色々どうでも良い気分になってくる、
武田軍の武将の現実離れの度合いを見ていると、
何が普通なのか、自分の感覚が疑わしくって仕方が無い。
「旦那ぁ、ちゃんと場所教えないと駄目でしょ。
迷ってましたよ?」
「……は?」
「なんと!
殿、申し訳ありませぬ…この幸村の失態にござる!!
この汚名は必ず、必ず返上してみせまする!!」
いや、そんな気合入れてくれなくて良いですよ。
ってか佐助さんや、あなたに借りを作るのは何より怖ろしいのですよ。
果てしなくげんなりした気分で、幸村の前に出た。
「じゃ、俺はこの辺で」
佐助はその場でふっと姿を消した。
幸村の前では腹黒さを隠しているのか、
それともこのワンコは気がつかないだけなのか、
その辺りがよく判らないまま疑問として存在するのが凄いと思う。
「
殿は騎乗されたことはおありか!?」
一々そんな、気合入れなくて良いから。
「ええ、まあ…」
農耕馬ですけど。
そう続けるつもりだった。
「おお、ならば話は早い!
これが
殿の馬でござる!!」
あの、人の話は最後まで聞いてください…。
「いや、あの…」
「名前は旋花という。
気立ての良い馬だ、大切にしてくだされ!!」
聞けよ。
なんて言うことなんてできず、
は引き合わされた馬の首を撫でてみた。
ぶるる、と鼻をならしたが、全く嫌がる様子は無い。
大人しいらしい。
「
殿が馬に乗れるならば本当に話は早いでござる。
武田軍の強さはこの騎馬隊、馬に慣れなければなりませぬ。
今日は鬼兵の鍛錬の様子を見ていただく事も兼ねて、
富士の樹海へ遠駆けに行きましょう!」
最 初 に 樹 海 っ て 。
幸村さんや、樹海って言うとあの磁石も利かない上に、
迷い込んだ人は二度と出てこないって噂のあれでございますよね?
「いざ、参りましょうぞ!!」
幸村は彼の白馬に跨った。
はもう反論する元気も無くなって、与えられた馬に乗った。
幸村と樹海。
無事で帰れる気がしない。
「うぉおおおお!!」
幸村はすぐに馬を全速力で走らせたので、
も慌てて馬の腹を蹴った。
このまま馬に乗って逃げられたらなぁ。
それ、良い考えかも。
逃げようかな。
俺様も本気出しちゃうよ?
そう言った佐助の笑顔が目に浮かんだ。
うん、やめよう★
泣きそうだ。
泣いちゃだめ、自分。
うっかり涙が零れそうになるのを我慢する。
農耕馬にしか乗ったことが無かった
だが、
旋花は暴れたりすることなく
の指示に従ってくれている。
本当に大人しい馬だ。
あんなに頭の悪い犬みたいな幸村も良いところがあるんだな、
とか思いながら前を走る幸村を見た。
幸村はよく見ると、鞍に座っていなかった。
立ってるって、どういう事ですか。
武田軍に馴染むと、ああいう事になるんだろうか。
私もそのうち、何の疑問もなくああいう乗り方をし始めるのだろうか。
そんな、まさか。
は頬を引きつらせたまま暫く馬を走らせた。
樹海が近づくにつれ、その広さと禍々しさが際立ったが、
それよりも禍々しいものに目が釘付けになってしまった。
あの、二匹の馬の上に立ってる人が居るんですけど。
「ぅお館様ぁっ!!」
幸村が叫んだ。
嗚呼、やっぱり。
「幸村よ、早かったな」
「はい!!
殿に乗馬の心得がありましたので、すぐにこちらに参上いたしました!!」
「やはりお主に勝つだけの事はある」
この雰囲気では言い出せない。
農耕馬にしか乗ったことがありません、なんて。
ちょっと暗い気分になったのが馬に伝わったのか、旋花はその場に止まった。
何かに怯えているようでもある。
「
よ、鬼兵を見たことはあるか?」
「いいえ」
そういえば、鬼兵って何なのだろうか。
鬼のお面でもつけているのだろうか?
鬼のように怖い顔、とか。
「うむ、知らぬまま大勢見ると驚くのでな、
一人ここまで呼んでおいたのだ」
へぇ。
そんな怖ろしい顔の人間ばっかりいるのだろうか。
「出て参れ」
信玄がそう言うと、
森の中から地響きをさせながらやたら背の高い兵士が出てきた。
凄く背が高いな、と思いながら
は眺めていた。
暗がりから出てきたとき、ようやくその姿がはっきりと分った。
それは本当に鬼だった。
その怖ろしい見た目に
は息を呑んだ。
確かに、こいつが居並ぶ様子は怖ろしいだろう。
「ひ…ヒヒーン!!!」
馬が嘶いた。
旋花が後ろ足で立ち上がり、危うく
は振り落とされそうになった。
先ほどから、ずっと怖れていたようだ。
「ぎゃーーーーっ!!!」
色気もへったくれも無い悲鳴をあげて、
は手綱にしがみ付いた。
落ちる、落ちる!
馬は先ほどからは考えられない速さで逃げ始めた。
「ほう、驚きつつも馬を御しておる」
あの、現実をよーっく見てください。
彼は良い方に勘違いする癖でもあるのだろうか?
そんな事を考えても状況が改善する訳でもないが、
思ってしまったことは仕方が無い。
現実逃避をしてしまう癖が身に染み付いているのかもしれない。
「この幸村、己の至らなさを反省するばかりであります!!」
へへ…へへへ!
そうだ。
とりあえず走り始めた馬にしがみ付いて冷静になった
は考えた。
このまま鬼兵が怖ろしいフリをして逃げれば。
へばりつくような体勢のまま一応手綱を引いてみると、
馬はその命令に従ってくれた。
どうやら旋花も徐々に落ち着いてきたらしい。
「いやー、お館様ってば見る目ある!」
佐助の声が聞こえた。
佐助が居るんだ。
いやいや、こんなチャンスって、そんなに無い。
今この機会を逃したらいつ逃げ出せるか分らない。
逃げろ、今こそ逃げるんだ!!
「旋花、戻って来い」
佐助そう言った瞬間、旋花は急に向きを変えた。
え、あの、ちょっと!?
「そういえば、佐助がしつけたのであったか」
何 で す と ?
「ええ、良い馬でしょ?」
旋花は佐助の前で止まった。
は旋花の全身から嫌な汗が吹き出ているように見えた。
「よしよし。
あれ、
さん、何かあった?」
にっこり、と旋花をなでながら佐助が笑った。
うん、そっか。
先手は打ってある訳ですね。
「いえ、何も」
はがっくりと肩を落とした。
おうちに帰りたい。
そんな些細な願いが本気で断たれ続けるかわいそうな農民に愛の手を。
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