愉快な武田軍ライフ


「た…食べ物を寄越せ……」

それはどこからどう見ても落ち武者だった。
ざんばら髪、くぼんだ目、こけた頬。
きれいにそられていただろう月代は今はもううっすら髪の毛が伸びている。

は持っていた鍬を握り締めた。
落ち武者は刀を握っている。
リーチは此方の方が長いが、刃の部分は相手の方が長い。

食べ物なんか寄越すものか、この野郎。

思い切り鍬を振り下ろした。
突然だったので、相手も予想外だったのだろう。
鍬は深々と落ち武者の首に突き刺さった。

たまたまその落ち武者が勇名な武人だったりとか、
それがあの武田家の敵の人間だったりだとか、
そういう副産物が色々付加されていた。

おかげさまではたんまり報償をいただくことが出来た。
彼の首には高額の報奨金が付加されていたからだ。
それも副産物だ。

そのまま帰ることができるとばかり思っていたが、
たまたま現れた武田家当主の武田信玄が通りがかったせいで台無しになってしまった。

「それでは、失礼します」

は満面の笑顔で部屋を出ようとしていた。
財布には今まで持ったことも無いようなお金。
これが喜ばずに居られるものか。

対面していた武田軍のだれかも嬉しそうだった。
ずっと探していた人物だったのだろう。

そのとき、襖が勢い良く開いた。
あまりに勢いが良すぎて襖が若干戻ったぐらいだ。
はもちろんの事、向かいに座っていた人もそちらを見た。

「お、お館様…!」

はは、と平伏する様子が見えたが、
は初めて有名人を目の当たりにしたので、呆然としてじろじろ見てしまった。

「おお、その娘か、あの男の首をとったのは」

ずんずん、と歩いてくる。
の第一印象は「こいつ人間か?」だった。

何より、なんでそんなぴったりした虎の皮の服を着ているのか、
角が生えてるんだとか、
そういう色々な突っ込みどころが満載だったからである。

「ふむ、弱っておったとはいえ、あ奴を討ち取るとは大したもの。
 見所のある奴よ」

あの、一人で納得しないで下さい。

「お…お館様ぁっ!!!」

……もう一人変なのが来た。

「是非、是非この幸村に手合わせの機会を!!!」

真 田 幸 村 だ っ た ん だ 。

確か、知将とかそんな噂を聞いたような気がしたんですけど。
っていうか、誰と手合わせするつもりなんですか。
早く帰りたいんですけど。

駆け寄ってくる(頭の悪い犬みたいな)幸村に向かって、
信玄は思い切り握りこぶしを顔にめり込ませた。

「ぐへぁっ!!!?」

幸村は軽い鞠みたいに吹っ飛び、庭の池に落ちた。
そんな音がしただけであって、の位置からは見えない。
きっと水の柱ができていたんだろうなぁ。

「そ、それでは…」

「馬鹿者!!
 ワシではなく、この…お主、名はなんという?」

無視ですか。

しかし、に無視で返すという選択肢は元から無い。
もし間違えればあの、
人が鞠のように飛んでしまう拳を頂戴してしまうかもしれない。
それは死に直結していると簡単に予想できる。
「1+1」よりも簡単だ。
きっと幸村さんも死んでしまったことだろう。

「あ、です」

そう、普通に答えた。
帰りたい。
こんな不穏な場所から帰らせてもらいたい。

「うむ。
 そのとやらに問うが良い」

「す、すみませぬ!!!」

びしょぬれの(やっぱり頭の悪い犬みたいな)幸村が、縁側に正座していた。
いつ出てきたのだろう。
というか、なんであんた生きてるんだよ。

殿、手合わせをお願いできませぬか!?
 この幸村が討ち損ねた武人を捕らえたとお聞きした。
 是非手合わせを!!」

あえて言おう。
頭の悪い犬は可愛らしい。
きらきらした目で見つめられて、はちょっとひるんだ。

しかし。
ここでこのきらきらした視線に負けてはいけない。
相手はちょっと噂とは違っても、何があっても、あの真田幸村だ。
ごくごく一般的な農民(女)が戦って勝てる相手ではない。
そんな痛い目を見るのが分っている賭けに手を出す訳にはいかない。

申し訳ありませんが、お断りします。

そう言うつもりだった。

「も…」

「うむ、この武田信玄が立会人となろうぞ」

聞いてももらえないんですか?

はちょっと泣きそうになった。
そんな、一般市民になんてこと命令されるんですか。
死にますから。
死んでしまいますから。
死にたくないですから。

「あーあ、あんたも運悪いねー。
 俺の主は強いよー?」

突然、背後から声がしたので振り返った。
そこには、にこにこと笑いながら胡坐をかいている迷彩柄の忍が座っていた。
迷彩って、あんた。

(逃げ出したいんですけど!)

とりあえず、声にはださずに口ぱくで主張してみた。
駄目もとである。
「溺れる者は藁をも掴む」なんて事なんて絶対無いだろう、と思っていたが、
溺れていたら藁でも掴んでしまうのかもしれないな、とちょっと思った。

「佐助!
 準備は出来ているか!?」

「勿論ですって。
 あとは皆さんいらっしゃるだけですよ」

満面の笑顔で、佐助と呼ばれた忍びは立ち上がった。
もうの方は一瞥もくれない。
所詮は雇われの身なのだろう。

味方、いないんだ。

自分でも、とてもさわやかな笑顔をしていた気がする。
そんな心境だった。

勿論に味方なんている訳もなく、流れで道場に通された。
若干名が哀れみの視線を送ってくれているようだったが、
それはごくごく一部のようで、
誰も「可哀想ですぞ!」とか、「お待ちくだされ!」だとかは言ってくれなかった。

逃げ出そうにもさっきの忍が完璧なエスコートを見せてくれて、
「この野郎、お前日本人だろう!」とか心の中で突っ込んだ。
(口に出す勇気は無い)

家に帰るタイミングを全て逸しつつ、は道場で幸村と対峙した。
もう、死ぬかもしれない。

手には渡された木刀。
目の前にはやはり木刀を持った幸村がいる。
武器の条件は五分だ。
しかし、持ち主の腕前は全然違う。

ああ、死ぬんだ、ここで。

そう思った。
だって、防具も付けさせてもらえずに、あの真田幸村と戦うなんて、
ただの阿呆だ。
死ねって言われたんだ。
何か私、やらかしたっけ?

走馬灯のように小さい頃の記憶が蘇る。
ああ。

「始め!」

信玄が叫んだ。

「うおおおおおおおっ!!!」

幸村が吠えている。
明るい未来なんて見えない。

死にたくないんですけど、まだ。

きっと、普通に殴ったら途中で止めてもらえるよね。
で、きっと失望してもらえるはず!

は木刀を投げ捨てた。
驚いているのか、幸村はあっけに取られている。
その隙に一気に間合いをつめて、全体重を乗せた右ストレートを顔に打ち込んだ。

殴れちゃったよ。
でも、あの人間かどうか怪しいマッチョに殴られて生きてた人だし。
きっと大丈夫だよ、と頭の中で誰かが囁いていた。

そういう問題じゃ無いんですけどね。

「へぶぅっ!!!」

幸村は鞠のように吹っ飛び、壁にぶつかった。
「おお!」と周りに座っていた人々が驚いている。

の勝ちとする!」

信玄がそう言いきった。
なんてことを言ってくれるんだ。

「うむ、その腕前、見事なり。
 どうじゃ、ワシの軍に入らぬか?」

そう、信玄が言った。

「あの、私は…」

「この幸村、感服いたしましたぁっ!!!
 是非、再戦の機会を!!!」

「入ってくれるよな、俺の主のお願いなんだから」

幸村は先ほどと同じきらきらした目で。
佐助は腰につけていた手裏剣をくるくると回しながら。

あの、どこのヤクザですか?

だめだめ。
屈するな、私。
農民だって首を横に振る権利だってある!!!

「入ってくれる、よな」

佐助が手裏剣を握り締めた。


「謹んでお受けいたします」

は床に額を擦りつけた。

「だよな!」

佐助はきっと良い笑顔で笑っているに違いない。

「うむ。
 よろしく頼むぞ。」

信玄は重々しく頷いている。

「うおおおお、燃えて参りました!!」

幸村は叫んでいる。

逃げちゃ駄目、逃げちゃ駄目、逃げちゃ駄目、逃げちゃ…
はぐ、と息を呑んだ。

ああ、おうちに帰りたい。
そんな些細な願いすら叶わない普通の農民に愛の手を。