烟月の嘆き


戦が近づいている。
信玄は日増しに緊張感が高まるのが嫌いでは無かった。



「――…はい」

呼ぶと現れる。

「碁を」

「はい」

碁盤も石もすっかり用意して待っていたので、
は向かいの席に座った。

彼女はこの躑躅ヶ崎館に来てから、
随分碁が強くなった。
まず、石を捨てなくなった。
攻守の区別がはっきりし、
守るべきときは守り、攻めるべきときは懐に切り込むように攻める。

ぱちり、と石を置いて信玄はを見やった。
彼女は碁盤をじっと睨みつけ、次の一手を考えている。

幸村の剛勇との思慮深さを足せば、
それこそ昌幸が求める武将に足る素質になるのではないか、と思う。
に幸村の剛勇があれば――…。
そこまで考えて、止めた。
仮定の話はいくら続けても意味が無い。

がぱちり、と黒い石を置いた。

「うぬぅ……」

信玄は唸った。
の一手はまさに、
信玄の首に切先をつきつけるような見事な一手であった。
にそこを取られるまで、
気がつかなかったというのはやはり老いてきた証拠か。

「ワシの負けじゃ」

ふぅ、と溜息をついて、信玄は持っていた扇子で膝を叩いた。

「初勝利にございます」

がはにかんむようにして微笑んだ。
そうやって、年相応の反応をしているときだけ、
彼女が一人の若い娘であることを思い出す。

「ワシも老いたか」

「上の空で打っておいででしたから」

の一言で、信玄は苦笑した。

「判っておったか」

「戦が近づいておりましょう。
 真剣に碁ばかりさして居れる方では」

「判るか」

「勝てましたゆえ」

は一片の曇りもない微笑みを浮かべたまま言った。

「して、幸村はまだじゃろうのう」

「幸村様は強くなられましたが、まだ」

「昌幸も難しい話を持ち出しよる」

「全て信玄公の御為にございましょう」

「ふぅむ……」

信玄はぱたぱたぱた、と扇子を開いた。
紺地に白く流水紋が描かれた扇子で、
信玄はこれを好んで使っている。

「そうじゃ、、ワシに勝った褒美をやろう」

ぱたん、と扇子を閉じた。
はまた、怪訝な顔つきになった。

「ただの戯れ事のお相手にございます」

「ワシが良いと言うておる。
 何が良い、何でも言うてみよ」

精一杯の笑顔で見つめると、
は居心地悪そうにきょろきょろと視線を彷徨わせた。

「何も要りません」

「ワシを馬鹿にしておるのか?」

「そ、そういうわけではございませぬ!」

ぶんぶん、とは顔を横に振った。
随分のんびりした時間が流れているように思う。

「では……その扇子を」

「これか?他にいくらでも高価な物もあろうに……。
 良い扇子を一つ、作らせるか?」

「いえ、その扇子が頂きたく存じます」

はまっすぐ、信玄を見た。
何を考えているのかやはりよく判らないが、
別に扇子の一つで困ることなど何もないので、
信玄は迷わずに扇子を渡した。

「誰かと違って欲の無い忍よ」

笑う。
は気まずげに受け取った扇子を帯に挿した。

「忍など、欲があれば出来ませぬ」

「佐助一人に途方も無い金をつぎ込んでおる」

「あれは、あれで欲の無い男でございます。
 幸村を己のただ一人の主と決めておりまする。
 ゆえに、あれはあの男の照れ隠しにございます」

が苦笑した。
最近、はよく笑う。
本来そういう性質の娘なのかもしれない。

「――…ほんに、お主は月のようじゃ」

信玄はそう、ぽつりと言った。

「月、でございますか」

「夜空に浮かぶ月じゃ」

「そのように美しいものではございませぬ」

「ならば、少しけぶった烟月じゃ。
 お主は優しくもあるが冷たくもある。
 見るときによって変わる。
 似ていると思うがの」

「そのようなお戯れ、奥方様に使われるがよろしいかと」

は怒ったのか、すぐに姿を消してしまった。
からかいすぎたか、
と信玄は盤上にまだ並べられたままの石に視線を落とした。

もしが元来よく笑う娘だったなら、
きっと昌幸と碁をうちながら笑っていたのかもしれぬ。
そう思うと少し昌幸に嫉妬してしまう。

最近、体調が芳しくない。
もう若くはないのだから仕方の無いこととはいえ、
どことなくもやもやと不安になってしまうのだった。