烟月の嘆き
と碁を打つようになって一月。
彼女の碁は相変わらず危険な石を切り捨てるような碁を打ったが、
それでも何も言わず信玄の相手をしてくれた。
「……ありません」
はそう言って溜息をついた。
盤上には三分の一ほどの
の黒い石と、
取り囲むように置かれた信玄の白い石がある。
「ここでこの石を諦めなんだら、
もうちょっとは善戦したかもしれんのう」
「……」
むぅ、と
は眉間に皺を寄せた。
「そういえば、昌幸は何故にお主を拾ったのじゃ?」
そう、唐突に切り出してみた。
の瞳が少し揺らいだが、動揺する様子は無かった。
「……お話せねばなりませぬか」
「いや、無理強いするつもりは無い」
盤上の石を集めながら、信玄は言った。
も無言で自分の石を集めている。
珍しく迷っているようだ。
石を入れ物に戻すと、信玄の石の中に一つだけ黒い石が混じっていた。
それを
に手渡した。
彼女はそれを受け取りながら、躊躇いがちにぽつりと言った。
「私はこの石のように……何処にいってもはぐれておりました」
はぐれた忍。
信玄は口を挟まず、入れ物のふたをした。
私は忍の里の子供でもありませんでした。
山中で行き倒れていたところを、里の人間に拾われたのでございます。
それ以前の記憶はございません。
拾われた後、里で忍の教育を受けました。
そこで生き抜くには、評価されるには、
その教育を誰よりも深く理解することが必要でした。
先ほども申し上げましたが、私は里の人間ではありません。
飯を食えぬようになるのが怖ろしくて、
必死で全てを学び取ろうといたしました。
そういう、はぐれ者を仲間にしたがらない人間もございます。
村のおない年くらいの子供達に、私は呼び出されました。
皆一様に怖ろしい顔をしておりました。
やっかみでしたのでしょう。
大人もあまり来ない深い森の中で袋叩きにあいました。
しかし、もう私は身体の芯から忍でございました。
返り討ちというには少々酷い方法で、
私は己の身を守りました。
全員が地面に伏して初めて、
私は己のしでかしたことの重大さに気がつきました。
怖ろしくなって、里から逃げ出しました。
里から逃げた忍の行く末は決まっております。
私は必死で逃げておりました。
生き延びたい、という浅ましい気持ちで一杯でございました。
追っ手を何人も切り伏せておりましたが、
五人くらいの追っ手が一度に参りましたときがございました。
もう駄目だと観念したのですが、
折り悪く――折り良くと申しますか、昌幸様がいらっしゃったのです。
近くに侍っておりました忍が私を助けてくれました。
まだ子供で、小さな私が追われていることを、
昌幸様は大層哀れんで下さり、私は昌幸様に拾われました。
そこで
は溜息をついた。
彼女は淡々と感情を交えず語り終えた。
信玄はその様子をつぶさに観察していたが、
彼女に何か変化が起こることは無かった。
もう、過去のことなのだろう。
「真田の家でも私の存在に気がついておりましたのはその忍と、
昌幸様のみにございます」
は目を伏せた。
「今も、境遇はあまり変わりません。
しかし、信玄公。
昌幸様が貴方に心酔していらした理由が少しわかります」
苦笑するような、微笑みが
の顔を彩った。
まるで、小さな花が綻ぶような微笑だった。
「理由、とな?」
信玄は首を傾げた。
自分が慕われる理由など、そう理解できるものではない。
「はい」
は力強く頷いた。
「其れは―――…」
「ぅお館様ぁぁぁぁぁぁっ!!」
廊下から幸村の声が聞こえた。
その瞬間、
の姿が信玄の前から消えた。
縁側を走って現れた幸村は、がば、とその場に額づいた。
「この幸村、お館様に稽古をつけていただきたく――…」
ちらり、と此方の顔色を伺う。
信玄は溜息をついた。
「ど、どうかなさいましたか?」
「お主が出てきたから月が沈んでしもうたわ」
きょとん、とした顔で幸村は首を傾げた。
「こちらに誰かおいででしたか」
「いや、誰もおらぬわ。
幸村、此処で手合わせなんぞしては館が潰れる」
「す、すみませぬ……」
幸村はしょげた。
「佐助」
「……はいよっと」
佐助が天井裏から現れた。
どこか居心地悪そうなのは、
自分が屋根裏に居ることを気づかれたからだろうか。
「最近、鼠は多いか?」
「へ?
あ、ええ、それなりに」
は何処に隠れて仕舞ったのだろうか。
佐助に見つかりはしなかったろうか、と少し心配になる。
しかし幸村という太陽が居なくならなければ、
きっと出てくることは無い。
「では、参ろうぞ」
信玄は立ち上がった。
最近身体がなまっている気がする。
老いたのだろうか?
否、きっと碁の指しすぎなのだろう。
碁盤を見やると、
が使っていた碁石は綺麗に片付けられていた。
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