烟月の嘆き
幸村は時と戦を重ねる毎に逞しく成長した。
「
」
信玄が呼ぶと、
屋根裏から木の葉が舞い落ちるように一人の忍が降りてきた。
白い衣が光を弾き、闇の中で忍んでいられるのかと疑問に思う。
紅の帯がふわふわと揺れた。
小さい子供がしている帯に似ている。
「何用でござりましょう」
「幸村は如何じゃ」
聞いても、
はいつも同じ返事をする。
「まだ遠き道の途中にございまする」
ふうむ、と信玄は脇息に寄りかかった。
「お主、佐助と鉢合わせはせんのか」
「そのようなヘマはいたしませぬ。
あの男の取りそうな行動は全て読めます」
感情の篭らぬ目は、しかし、少し眠たげに揺らいだ。
「それは、何よりじゃ」
信玄は頷いた。
は不思議そうに信玄を見る。
「お主、幸村を監視する以外に何をしておるのじゃ」
「佐助のおらぬ間に影の鼠を狩っておりまする」
「多いか」
「いえ、佐助が殆ど狩り尽くしておりまする」
の目が細められた。
それ以外の変化は無い。
「暇であろう。
将棋は出来るか」
「…嗜む程度に」
「では、碁は」
「昌幸様のお相手が出来る程度に」
「では、ワシの相手をいたせ。
最近面白い碁を打つ者がおらんで退屈しておった所じゃ」
は怪訝な顔つきになった。
「昌幸様の命を全うできませぬ」
「では、佐助がおる時にワシの部屋に参れ。
あ奴がおれば監視もできぬであろう、その時だけで良い」
「正気にございますか」
「気が狂れているように見えるか」
は微妙な間を取って、答えた。
「――…少しばかり」
信玄は笑ってしまった。
は怪訝な顔つきにもどった。
「何が可笑しゅうございまするか」
きっと、彼女は大真面目に答えたのだろう。
「いやいや、何でもない。
ではきっと、参るのだぞ?」
「承知」
「早速じゃが、今は佐助がおるはずじゃ。
一局打たぬか?」
「お相手願います」
は深々と頭を垂れた。
その所作は恐らく、昌幸が一から仕込んだものだろう。
一局、打った。
の碁は洗練された物では無かったが、
並の腕前ではなかった。
昌幸の相手をしていたというのも、嘘偽りではないのだろう。
碁をさす昌幸の頬が緩むのが容易に想像できた。
幸村では相手に不足であったろうから。
信玄は
が去った後、一人で碁盤を眺めながら溜息をついた。
強いが、もっと強くなれる。
の碁は攻撃一本の碁であった。
良くも悪くも単調である。
碁は、戦の基本を学ぶことが出来る一つの道具だ。
の戦は、守りに入らざるを得ぬ者を切り捨ててゆくものなのだろう。
そういう戦を完全に否定はしない。
昌幸はどう思ったろうか。
今はもう居ない、優秀な部下を思い出した。
幸村は、強くなったとはいえまだ幼い。
信玄もわかっている。
昌幸が、
が彼に求めているのは、
今の彼に足りない物は、
恐らく冷静沈着に時期を読み、
より損害の少ない道を選ぶという慎重さであろう。
突進が彼の持ち味であったとしても、
将として、また優秀な家臣となるには彼は前しか見えていない。
彼が左右、そして後ろを見るようになったとき、
はきっと姿を消す。
『私の意味が終わりまする』
意味。
人間に意味などあるのだろうか。
彼女が生きる意味は他でもなく、昌幸が残した命令だ。
難儀な課題を残してくれたものだ。
信玄は苦笑した。
をどうやってここに留めおこう。
とりあえずは、幸村が真っ直ぐ今のまま突進んでくれることを祈るしかない。
複雑な心境である。
二人は太陽と月の如く、今はその力を拮抗させているが、
その状態がいつまで続くか判らない。
判断を先延ばしにするのは性分ではないが、
今のところ、信玄が打つべき手は何も無い。
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