烟月の嘆き


真田源ニ朗幸村が信玄の部下となったのは、
彼の父である真田昌幸が死んだその日だった。

幸村は彼の部下であるという猿飛佐助という若者をつれてきた。
敵に回せば中々の曲者になりそうな、
良い目をした若者であった。
一介の忍に甘んじているのは、幸村の人柄なのだろうか。
その様子を見て、信玄は微笑ましいとさえ思った。

しかし。

信玄は木の上からこちらを見つめる一つの視線に気がついた。
幸村も、警戒心の強そうな佐助ですら気がついていない。
上手く気配を断っているものの、
ほんの僅か―――微風が枝葉を微かに揺らすような気配がした。

「幸村よ。お主、もう一人忍を連れてはおらぬか?」

信玄がそう聞くと、佐助はすぐに辺りの気配を探った。
良い反応である。
幸村は顔をあげ、猛烈な勢いで首を横に振った。

「お館様、某の忍は佐助だけにございます!」

「そうか、なら良いのじゃ」

佐助は結局気配を見つけ出すことが出来なかったらしく、
不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
信玄は溜息をついて、気配の主を探した。

新緑の木の葉の間に、似つかわしくない紅葉が一片。

あそこか。
それにしても、上手く気配を断っている。
信玄がみつけることが出来たのも、運が良かったにすぎない。

「お館様、俺にはちょっと判らないんですが…」

佐助は自分が気がつけないことが不快なようで、
眉間に皺を寄せたままそう言った。
忍ゆえの性分であろう。
なかなか、職分に忠実な男のようである。
ちゃらんぽらんなようで、中には芯が一本通っている。

「いやいや、ワシの気のせいじゃ。
 昌幸が死んだからと言って、戦を止めるわけにはゆかぬ。
 お主等はもう下がれ」

「はっ!」

幸村は額を地面にこすり付けるように頭を下げ、下がった。
佐助もそれに倣って姿を消した。

「ワシは少々、一人になりたい。
 皆暫く外すよう伝えてくれ」

近くに侍っていた一人にそう言って、空を眺めた。
辺りに完全に人が居なくなってから、
漸く信玄は口を開いた。

「出て参れ」

水面を月の光がたゆうがごとく、気配が動き、
目の前に一人のくノ一が現れた。
日の光の下では目にも綾な、紅の帯。
他は色素が抜かれた真白な装束。

「…御見それしました」

「そんな事は良い。
 お主は何者じゃ。」

気配は感じても、殺気は感じない。
敵か、味方か。

「私は昌幸様が忍…と申します」

「真田家の忍ではない、と申すか」

「はい」

およそ抑揚の感じられない声であった。
と名乗った忍は信玄を真っ直ぐ見据えている。
その瞳には光は差さず、完全な闇の帳が下りている為感情が読めぬ。

「昌幸様との契約により、
 幸村様がご立派に成長されているかを見届けに参りました」

「アレでは駄目か」

「昌幸様が望まれたところまでは到達しておりませぬ」

ふうむ、と信玄は顎を掻いた。

「佐助は何故気づかぬ」

「あ奴が真田の家に来たときから私が監視しておりましたゆえ」

慣れてしまったのでございましょう。
はそこで初めて、にぃっと笑った。

「幸村が成長せなんだら如何いたす」

「その時は、自害を申し付ける書状を昌幸様から頂いております。
 もし成長しましたら、私の意味が終わります」

信玄公、とは続けた。

「貴方が気づいた場合に渡すよう申しつけられた書状がございます。
 受け取って頂きたい」

は懐から一通の書状を出し、信玄の目の前に突き出した。
信玄はそれを受け取った。

「この書状、昌幸はいつ書いた」

「半年ほど前の事でございまする」

忍は淀みなく答えた。

「今読んでも構わぬか」

「今、読んでいただきたい」

「では、暫し待て」

信玄は書状を開いて、篝火の光でそれを読んだ。
中には死んだ昌幸の字がつらつらと並んでいる。

「――…昌幸様は何と」

が信玄の顔を真っ直ぐ見ている。
一片の感情も篭らぬ暗い双眸。
忍の目とは本来、こういう目をしているのだろう。

「幸村をよろしく頼むと。
 お主の行動のお目こぼしを頼む、と」

「承知して頂けまするか」

「承知する」

「では、私はこれから幸村様を監視いたしまする。
 躑躅ヶ崎館にも参りまするが、ご容赦願う」

「相分かった」

そう言ってやると、は姿を消した。
今度はもう、気配を感じ取ることは出来ない。
きっと幸村のところに行ったのだろう。

『幸村の末、の末をよろしくお頼み申す』

それが昌幸の書状にあった言葉だった。
子供と同じ年頃の忍、おそらく情が湧いたのだろう。
それにしても、死を予見していたとは酷い話だ。
老いを感じていたならば、それを察してやれなかったのは信玄の過失だ。

の顔を思い出そうとするが、思い出せない。
にぃっと笑った三日月の形の口だけが印象的だった。

けぶる月のように朧な印象。

幸村の烈火のような印象とは、真逆の忍だった。
まるで太陽と月のようだ、などと柄にも無く詩的な感想を持った。

こうして、信玄の下に二人の昌幸の子供が転がり込んできたのだった。