烟月の嘆き


上洛の日取りも決まり、あとはその日を待つばかりとなった頃、
信玄の持病は悪化した。
薬師を呼んでも、その甲斐なく衰弱してゆくのを彼自身一番理解していた。

「お館様……!」

家臣が集まって信玄の様子を伺っている。
目に涙を浮かべているものもいる。
そんな弱気でどうするのじゃと叱ってやりたいところだが、
そう思ったとおりに動ければ苦労は無い。

ついに、幸村は信玄の下で昌幸が望んだ武将となる事ができなかった。
色々手を尽くしたつもりではあったが、
あまり望んだほどの結果は得られなかったようだ。

「外せ…」

「は?」

「暫しの間、人払いをせよ」

「人払い、でございますか」

「うむ。半刻で良い」

「はっ!!」

幸村にそう告げると、彼は真面目に人払いをしたようだった。
もし信玄が居なくなったらどうするつもりなのか、と少し不安になる。
彼は自力で、昌幸が願う生き方が出来るだろうか。

「――…

「これに」

ふわりと風が頬をなで、が傍に舞い降りた。
眉間に皺を寄せ、今にも泣き出してしまいそうな顔をしている。

「すまなんだ…幸村を上手く導いてやれなんだ」

「手を尽くしていただけだだけで、昌幸様もお喜びの事と思いまする」

「書をしたためておいた。
 これを勝頼に渡すが良かろう」

「……ありがたく存じます」

信玄が箱ごとに書状を渡すと、
はそれを厳かに受け取った。

「死にまするか」

「うむ、死ぬ」

暫しの沈黙。
外に鳥がいるのか、ぴちちと啼く声が聞こえた。

「私は、信玄公にお詫びせねばならぬことがございます」

はぽつり、とそう言った。

「何じゃ、申してみよ」

「私は嘘をつきました」

「ほう、どんな」


「昌幸様が幸村様に求めた条件とは、
 信玄公のお役に立つというその一点のみにございました。」


は俯いてしまった。
少し遠いので、その表情を見ることは出来ない。

「信玄公、私はずっと貴方のお命を狙っておりました」

「ほう」

「私は――…」

の言葉がそこで途切れた。
信玄は続きを待った。
今はもう、待つことしか出来ない。

「信玄公、私は貴方様をお慕い申し上げております」

搾り出すような、少し擦れた声では言った。

「そうか」

信玄はそう、言うことしか出来なかった。

「扇子を所望したのも、
 これが信玄公が普段使っていらっしゃる物だったからにございます。
 私は嘘つきにございます。
 欲深い、ただの女にございます。」

ぽろぽろ、との頬を涙が伝い落ちた。

「起きる。
 少し手伝ってくれぬか」

言うと、は信玄が上体を起こそうとするのを無言で手伝ってくれた。
しゃくりあげる声が聞こえた。
信玄は布団の上での方を向いて胡坐をかいた。
それが一番、楽な座り方だったからだ。

よ、わしはお主を可愛い娘のように思うておる。
 いや、思おうとしておった。
 一回りも二回りも若い娘に、
 それ以上の感情を抱いてはならぬと自戒しておった」

が顔を上げた。
ここに来てから、は随分痩せた気がする。

「幸村が成長せなんだら良いと何度も思う自分がおってな。
 ついまだ先であると確認せずには居れなんだ。
 じゃが、もうじきワシも死ぬ。
 最後くらい正直に申す」

「何でございましょう?」

「此方へ」

そう言うと、は信玄のすぐ傍に座った。
不安げな瞳が揺れる。
頬を伝う涙を手で拭ってやった。

「お主の成長も、楽しみにしておった。
 しかし、全てを失う今わの際まで踏ん切りがつかんとは、
 ワシも女々しい男よ」

くつくつ、と喉の奥で笑った。
が不思議そうに此方を見る。

「好いておる」

涙を拭った手での顎を掴んで、口付けた。
最初で最後の口付けになることは互いにわかっていた。
判っていたからこそ、ほんの一瞬が長く感じた。

「そろそろ幸村が戻る。
 残りたければ残れるように書いてある。
 幸村は……あれは十分に立派に育ったとは思わぬか?
 じゃからお主は自由に、好きに生きるが良い。」

「はい」

は立ち上がった。
遠くで足音が聞こえる。

「短気を起こしてくれるなよ」

「承知。
 それでは、これにて」

の気配が消えた。
信玄は今まで手の届くところにあったを思い出して、
短く嘆息した。

横になって、皆が戻るのを待つ。
もう、長くない。
思い残すこともない。
後継者に恵まれ、想いを告げることもできた自分は、
何と幸せなことか。

「死んでくれるなよ……

信玄の呟きは、部屋の中で霧散した。





武田信玄崩御。
その知らせは隠されたものの、の耳にはしっかり入った。

「信玄公、私は貴方に是以上嘘はつきとうありませぬ」

はそう言って、目の前の門を見上げた。
深緑の枝葉が繁る山奥の寺院。
一度微笑んで、はその門をくぐった。

貴方が居らねば、この世界の色が全て失われたと同じ事。
ならば心穏やかに過ごせる場所でひっそりと。
来世でも必ずお会いしとうございます。
もっと早く。