箱庭の姫君


大きな音を立てて雨戸が倒れたのは次の瞬間で、
私はその向こうに立つ人をまじまじと眺めた。

「元親……どうして?」

「帰るぞ、四国へ」

元親は土足で上がり、私の腕を取った。
いつぞやの出来事を思い出すが、彼の目は悲しみに似た感情で満たされていた。

「前にも言ったでしょう。私は此処に残ります」

「お前、元就に何されたか判ってんのか!?」

元親は怒鳴った。
真剣な目で、私の顔を覗き込む。

「脚切られて、こんな浮世離れした場所に閉じ込められて、
 挙句の果てには誘拐までされて…お前、おかしくなっちまったのか?」

元親が先日の出来事を知っていたことに驚いた。
返事できずに居ると、元親は目の前で片膝をついて目線を合わせた。

「……お袋さんだって待ってんだ。
 帰るぜ」

「…私はおかしくなった訳じゃないし、四国には帰らない」

私は短刀を鞘から抜いて、元親に向けた。
元親の表情が意外そうに歪んだ。

「元就様をお一人にするなんて、私には出来ない」

「お前――…」

「元親…私は大丈夫だから、何も心配しないで。だから…」

そこで一度、私は息を吸った。

「だから、放っておいて」

「そりゃ、無理な話ってもんだ」

元親は苦笑して、くるりと器用に短刀を私の手から奪った。

「お前、現実が見えて無ぇよ」

そう言って、元親は難なく私を抱き上げた。
元就様とは全く違う、ごつごつした身体。
ふわり、と懐かしい潮の香りがした。

「元親!」

「ちっと、雨に濡れるのは我慢してくれ」

元親は蹴破った雨戸に近づいて、そして止まった。

「…予想より早いお出ましじゃねぇか、元就」

その台詞に、私は雨戸の外に目を凝らした。
雨でけぶる庭の真ん中に、元就様がいらっしゃった。

「貴様……をはなせ、今すぐにだ!」

元就様の怒気が矢のような鋭さで飛んできた。
元親はへへ、と笑って私を床に下ろした。
短刀はすぐ脇に置いてくれた。

「手前ぇにも人間らしい感情があるんだな」

立てかけてあった碇のような槍を取って、元親は庭に降りた。
元就様は元親を睨みつけている。

「武器を取ったという事は、我とやりあうつもりか?」

「一人の女をかけて戦うってのも、ま、悪かねぇな」

ぴたりと元親は止まり、持っていた槍を真っ直ぐ元就様に向けた。

「こんな所に押し込めやがって…」

「黙れ、貴様の言葉など聴いても時間の無駄よ」

元就様は輪刀で元親の槍を横から弾いた。

は人間だぜ」

「黙れ」

「お前の雛人形じゃねぇんだ」

「黙れ!」

「こんなでっかい箱庭作ってどうするつもりなんだ?」

「黙れ、黙れ!!」

元就様は怒りに顔を歪ませて、元親に斬りかかった。
元親はそれを難無く避けて、笑う。

「その減らず口、首ごと胴と切り離してくれる!」

「おうおう、言うねぇ。
 やれるもんならやってみろ、下衆野郎!」

私はその一部始終を見ていた。
見ている事しか出来なかった。
「お止め下さい」といくら声を嗄らして叫んだところで、
意味が無いだろうという事は判っていた。

誰も死んで欲しくない。

祈るように、目を凝らしていた。
泥が跳ねる。
雨水が飛び散る。
それが朱に染まりませぬように。

何度も武器をぶつけ合わせていた。
しかし、勝敗というのは一瞬で決まるものらしい。
元親の突きをかわした元就様は、輪刀を元親の槍に引っ掛け、
そのまま思い切り振り抜いた。
雨が降っていたからだろう。元親が驚くのと同時に、その手から槍が抜けた。

「死ね」

元就様は輪刀で、元親を袈裟懸に切った。
がしゃり、と槍が落ちる音がした。
動きが止まった元親に、元就様は容赦なくもう一太刀振るった。

元親の首が、飛んだ。

一度膝をついて、元親の身体がその場に崩れ落ちた。
一瞬送れて、首が泥水の中に落ちた。

頬を、涙が滑り落ちた。
ぽたり、ぽたりと次から次へと溢れては落ちる。

死に方が残酷だからではない。
目の前で殺されたからではない。
自分が悪しからず思っている人間が死んで、
悲しまない人間が何処に居るだろうか。

元就様は元親の首を一瞥し、此方に向かってこられた。
その顔は無表情で、少し怖ろしい。

「今帰った」

「…お帰りなさいませ」

「何を泣く」

「悲しゅうございます故」

「あの鬼か」

問われて、言葉を失った。
水溜りの中の元親が、先ほど目の前で笑った元親が、
此方を虚ろな目で見ている。

…そなたはあの鬼を取るか」

元就様は私の胸倉を掴んで引っ張り起こした。
相当、お怒りだ。

「そなたも此処に来てからの全てをままごとと申すか?」

「……元就様、知人の死を悼むことも禁じておしまいになりますか?」

元就様の眉間に皺がよった。

よ、そなたは我の物だ。
 違うか?違わぬだろう。
 ならば、何故そなたは鬼の為に泣く。
 そなたが我の為に涙することなど無かろうに!」

「元就様の為に泣きとうございませぬ」

頬を涙が流れている。
元親がこちらを見ている。

「私は元就様のお傍にずっとありとうございます。
 それで何故泣く必要がございましょう?」

「綺麗事を申せ!」

「綺麗事ではございませぬ。
 それにもう、私には元就様以外に涙を流すべき人などおりませぬ。」

雨で、元就様の髪の毛が頬にぺったり張り付いていた。
それを分けながら、私は元就様の目をじっと、見た。

「元就様が此処から私を追い払っておしまいにならぬ限り、
 私には元就様しかおりませぬ。」

元就様の頬は雨で冷え切っていた。
元から冷たい肌が、より一層冷たかった。

「誰が追い払うというのだ…我がそなたを手放すとでも?」

元就様の手から力が抜けた。
くたりとその場に座り込んだ私を、元就様はぎゅう、と抱きしめてくださった。

「これでそなたは我の物、完全に我の物だ」

元親は此処を箱庭だと言った。
それの何が悪いというのだろう?
元就様は私を必要としてくださっている。
それで充分ではないか。

どのみち、外の世界で一人で生きていく事などできない。
愛しい人がいて、何の不安も無いこの場所で、
何故苦労を伴う外の世界を夢見ようか?

「ずっと、お傍に」

涙はもう止まっていた。
外の世界がどうなろうと、元就様以外の人がどうなろうと知るものか。

そう思いながら、私は元就様の背中に腕をまわした。
真新しい血の臭いがする。
きっと元親のだけれども、それでも、とても幸せな気分だった。