箱庭の姫君


ひと気の無い離れに、弱い雨が屋根を打つ音がする。
じじ、と時折燭台の芯が焦げる音がする。

静寂で気が狂いそうだ。
私は思わず、自分の耳を塞いだ。
きん、と澄み切った静寂は、耳を劈く轟音よりなお痛い。

「……元就様」

呼びかけてみても、当然返事は無い。
元就様は九州北部を根城にする宗教団体の討伐に向かわれた。
詳しくは知らないが、一向一揆のようなものかしらん、
と他人事のように思った。

菖蒲の蕾がつき始めた頃に元就様は戦に出向かれ、
その蕾が膨らみ、開き、そして散ってしまった今もまだ、
戦から帰らない。

帯にさした小刀を取り出して、光に翳す。
鞘から抜くのは怖ろしくて、まだ一度も抜いていない。
これで人が殺せるのだと思うと、怖ろしくてならない。

これまでに何度も、人が死ぬ所は見てきたというのに。

斯様に何も出来ぬ、お荷物に過ぎない自分を置いてくださる。
誰よりも執着してくださっている。
でも、それは何故?

力の入らない方の足をさすりながら、溜息をついた。
そのような問いに自分が答えられる訳も無く、
また本人に聞いたところで明確な答えを与えてはくれないだろう。
そんな事の理由を答えられる人間なんて居ない。

以前見た庭の池に浮かぶ花びらよりも、
自分は確かな存在になれたのだろうか?
ただ水面をたゆうだけの存在以上になれたのだろうか?
元就様の言葉で言えば、使えぬ駒だ。
盤上にあっても、動かす事すら出来ない。

「…一人は寂しゅうございます」

呟いてみても仕方が無いことはわかっていたが、
口にせずには居られなかった。






その頃四国の長曾我部元親は、
苦虫を口いっぱいに頬張ったかのような仏頂面で座っていた。

「それは…本当なのか?」

目の前に畏まって座っている間諜を束ねている男は、真剣な顔で頷いた。

そんなまさか。
あの全てにおいて策を弄していそうな男が、
が誘拐されるのをみすみす見逃していただと?

「最終的に山中を探して見つけ出して、
 犯人の男は即刻手討ちにしたとの事ですぜ」

しとしとと、鬱陶しい雨が降り続いている。
やはり、からりと晴れた空が良い。
海が綺麗に青く見える、そんな空が良い。

「それで、は?」

さんは無傷で、また元の離れにお戻りになったって話でさぁ」

元親は舌打ちした。
あの現実離れした、植物で仕切られた庭。
ちらりと見た限りでは、花の季節になれば一面花で埋め尽くされるだろう。
その中で浮世から離れ始めていた
あれは地上に作られた彼岸だ。

「無事なら…良い」

元親はふと、桜の打掛を着たを思い出した。
元親を見て、驚いて、立ち上がることも出来ず。
元就に囲われた、逃げ場の無い狭い世界。

「やっぱり、ちょっと出かけるわ」

ぱん、と元親は一度膝を打った。

「アニキ、元就様のお宝を狙うんで?」

へへへ、と男は笑った。

「ああ、俺は自分の“仲間”がそんな目に遭うのを見てられる程、
 冷たく出来ちゃいねぇんだ」

「でしたら、毛利の城に詳しい奴をすぐ集めますぜ!」

「強い奴を十人ばかり、頼めるか?」

「任してくださいよ、アニキ!」

男は立ち上がって、ばたばたと走っていった。
それを見送って、元親は一人溜息をついた。

「…嫌な雨だぜ」







元就は戦を終えて、帰途の最中にあった。
は無事だろうか、と思う。
警備を強化しても、するりと姿を消してしまうのではないか、と不安になる。

空を分厚い雲が多い、そこから糸のように細い雨が降り注いでいる。
太陽が姿を見せる気配は一向に無い。
だからと言って進軍を遅らせるつもりは毛頭ない。
兵士達も早く帰りたいらしく、いつもより脚が早い。

不思議な女だ、と思う。
確固とした自我を持っているのかと思えば、
急にふわふわと不安定になる。

我を哀れんでいるのか。

そう、聞くことが出来ない。
何故か、口に出来ない。
そのたった一言が、酷く重い。

拒絶を怖れているのだろうか。
そんな、まさか。

「福原」

「何でございましょう」

「兵を急がせよ」

「御意」

雨は嫌いだ。
日輪を隠す。
加えて身体は冷えるし、視界は制限されるし、何も良いことは無い。
確かに雨が降らねば作物も実らないが、
それはそれ、これはこれである。

人の命など、何時途切れるやも知れぬ。
一刻の無駄も許したく無い。

ふと、紫陽花の時期は何時ごろか、と自問した。
折角離れに移したのだから、満開の折には見たいと思う。
もうすぐ城に着く。
妙に、疲れた。

元就は鬱陶しい雨を睨みつけて、一人嘆息した。





その日も私はいつもの如く蝋燭を灯して、ぼんやりと座っていた。
本当に、何もする事が無いというのは退屈だ。
それがどれだけ恵まれた生活かというのは理解していたが、
もし脚が自由に動くならば何かしなければならない事が欲しいと思った。

正午を少し過ぎた頃だろうか、うとうとと微睡んでいると、
俄かに雨戸の外が騒がしくなった。
何事かと思って耳を欹てても、その騒ぎはすぐに収まってしまった。

がたがた、と雨戸が鳴った。

「どなたですか」

庭師ではないし(彼は関わりたがらない)、
女中でもない(彼女等はそんな物音を立てたがらない)。
私は元就様に頂いた小刀をぎゅう、と強く握り締めて問いかけた。

「ちょっとばかし、戸から離れとけよ」

雨戸の向こうから聞こえたのは、聞き覚えのある声だった。