箱庭の姫君


まだ梅雨に入っていないのに雨が多い。
私は薄暗い部屋でぼんやりとしていた。
こういう雨の日は庭師だって働かないし、
女中はいつもの如く話し相手になってくれないので困る。

最近元就様はとみに忙しいご様子で、
離れにいらしてくださる回数が減った。
なんでも、領地内で不穏な宗教活動をする者が居ると
仰っていたが、私はこのまま元就様がいらっしゃらなくなるのではと
思うと不安で堪らなくなる。

夏用の木綿の内掛は、菖蒲が染め抜かれた可愛らしい物で、
こういうお心遣いでしか元就様が気にかけていて
下さっているのかどうか確かめる術は無い。

ひんやりと冷たい床に横になって、
ちろちろと燃える燭台の炎を見ていた。
こんなに暗くては書物を読むことさえ面倒だ。

この離れに来て、何人の人間が命を落としたろう。
そもそも、先日の誘拐事件のときに順番が割り当てられていた女中や、
買収されていたらしい門番はどうなったのだろう。
前者はまだきつく戒められるだけで済みそうなものだが、
後者は殺されてしまったかもしれない。
可哀想な事だが、私にはどうしようもない。

こうしてぼんやりしていると、
四国で生活していた頃の事を思い出す。
懐かしんでいる訳でも、戻りたいと思っている訳でもない。
ただ、他にすることが無いだけだ。

花冠を作ったり、雛遊びをしたり。
海に潜ったときの水の冷たさは、この時期とても気持ち良い。
晴れが続いたときは水が澄んでいて、いつまでも潜っていたいと
思える程綺麗だった。

両親も、慈しんで育ててくれたように思う。
特に不自由を感じた事は無かったし、
海女をしていたのは海に潜るのが好きだったというのもある。
ここに来てから、この離れから殆ど出ることは無くなってしまったので、
随分肌も白くなってしまった。

これからどうなるのだろうか、と茫洋とした未来を考えていると、
聞きなれた足音が聞こえてきた。
同時に、遠くで女中がわたわたと小走りに移動する音が聞こえた。
今日は元就様が来てくださった。
私は起き上がって、元就様がお部屋に入るのを待った。

、入るぞ」

「どうぞ」

襖の向こうから現れた元就様の顔は不機嫌そうで、
何かお心に不安に思われる所があるようだった。

「来て下さらないと思っておりました」

そう言うと、元就様は更に眉間に皺を寄せられた。

「やはり、一人は暇か」

「今日のように雨が降っておりますと、暗くて本が読めませぬ」

「ふむ…」

元就様はそのまま何事か考えておいでだった。
しとしとと細い雨が降る音だけが部屋の中にも届き、
どこか薄ら寒い雰囲気だった。

「元就様…そろそろ牡丹が咲く頃でございましょう。
 雨が降っているのが残念でなりません」

大きな、大きな桃色の花。
牡丹は自信を持って咲誇っているように思う。

「…もうそのような頃か。持ってこさせる」

「いえ、咲いているのを見たかっただけでございます。
 切花はすぐに萎れて、勿体のうございます」

元就様は呆れたような、困ったような笑みを浮かべられた。

「そなたは人にも花にも、情をかけるのだな」

「元就様は人を無碍にしすぎでございます」

そう言うと、すっと元就様の表情が消えた。
冷たい、表情だ。

「人など、所詮駒にすぎぬ」

「元就様御自身も、でございますか」

「人は須らく駒だ」

元就様がそう断言されたところで、
酒と肴が載った膳を持った女中が入ってきた。
元就様の前において、逃げるように帰ってゆく。

「召し上がりますか」

「少し貰う」

私は綺麗な硝子の銚子を傾けて、杯に酒を注いだ。
元就様はそれをくい、と一口だけ口に含んだ。

「全て神の采配で決まる。
 人など、神の手駒にすぎぬ。
 ならば、その駒できるだけ有効に使うが賢明であろう」

「駒にも心がございますれば…」

よ、将棋は知っておるか?」

唐突に話が変わったので、少し面食らってしまった。
今日の元就様は饒舌だ。

「細かくまでは存じ上げませぬが、それなりに」

「あれは良く出来た遊びよ。
 王や玉は全く使えぬ。
 勝つには角や飛車を上手く使わねばならぬ。
 そのとき歩は捨て駒にすぎず、卜金になるものは稀である。
 捕らえられた者は敵となり、逆もまた成る。
 現実的だとは思わぬか。
 人間も駒も、同じように動くのだ。
 戦は将棋をさしているのと変わらぬ」

戦は将棋。
だから、そこで消費される人も、駒に過ぎない。
元就様は杯を一気に呷られた。

その話を聞いて、私は妙に納得してしまった。
だから、駒。
元就様は手駒の多い将棋をしていらっしゃるおつもりなのだ。

「…使えぬ歩ばかりあっても戦には勝てぬ」

元就様は嘆息された。

元就様は随分とお変わりになった。
お笑いになることも多くなった。
だから人を人とお認めになってくださるのではないか、
と無意識に淡い期待を抱いていたようだ。

人が、駒。

自分は元就様にとって何なのか。
そんな疑問が湧いた。
この離れから出ることすらままならない上、
時折元就様を煩わせるような事件ばかり起こす。
いつ、元就様は自分を切り捨てておしまいになるのだろうか。

「何故そのような顔をする。
 人が駒だと言うのが“可哀想”だと申すか」

「…はい」

には全く関係の無い駒ぞ」

つまらなさそうに、膳に乗せられた肴をお召し上がりになった。
元就様のお食事は上品だが、
美味しそうに召し上がられた事は一度も無い。

「確かに、そうでございます」

が案ずるべきことでは無い」

「――…申し訳ありません」

元就さまがじ、と此方をご覧になったので、
私は酷く困惑してしまった。

「何か、顔についておりますか?」

「腫れは引いたか」

嗚呼、あの時の、と納得した。

「はい」

「そなたはあのような不逞の輩を殺す術を考えておけ」

そう仰って、元就様は懐から丁度私の手程の大きさの包みを取り出した。
渡されたので、錦の包みを開けると、
中には綺麗な常盤色の小刀が入っていた。

「我が何時もこの城に居るとは限らぬ。
 衣が汚れても構わぬ。
 次にあのような塵以下の輩が現れた時には、それで殺せ」

いつもより冷たいお顔でそう、仰った。

「――…はい」

身を案じてくれているのがとても嬉しかったが、
小刀がずしり、と手に重かった。

『何時もこの城に居るとは限らぬ』と、元就様は仰った。
戦が始まるのだ、と思うと、無性に心細くなるのだった。
そして、自分は元就様にとって一体何なのだろうか、
という疑問が心の中で確りと根を張ったのであった。