箱庭の姫君


元就様はお一人であったが、それでもお優しいところもある。
だからこそお傍に居ることが嫌ではないし、逃げ出したいと思わない。
それが逃げ出すことが容易な離れに私を置いたままにしている、
彼の信頼へ報いるたった一つの方法だ。

「何故、あのような男の所に居続けておられるのですか。
 望むなら、貴女を四国に送ることもできる」

「四国へ帰る意思はありません」

は静かに言った。
草右衛門は理解できない、といった表情になった。
確かに彼には理解できないかもしれない。

「何故?あのような人の心を持たぬ男に――…」

「元就様は人の心をお持ちで無い訳ではありません」

信じたくない気持ちはわかる。
お嘉代はまだ年端もいかぬ若い娘だった。
その彼女を容赦なく切り捨てたのだから。

「元就様が望んだお役目を果たすことが出来なかった罰を受けただけ」

「だまれ!」

草右衛門は立ち上がり、頬を打った。
頬の痛みよりも、心が痛い。

「まだ年端もいかぬ娘を殺して、何が罰だ!
 あ奴は人ではない、鬼だ」

部下から慕われてはいないだろうとは思っていたが、
ここまで嫌われてさえいたなんて。
草右衛門の表情からは元就に対する憎悪に近い悪意を感じる。

「今の貴方の顔を鬼と言わずして、何と言うのですか」

怖くない。
可哀想だが、怖ろしいとは全く思わない。
草右衛門は嗤った。

「あのような男に捕らわれているお前に、わかるものか」

その言葉が、酷く胸に痛い。






は脚が不自由だ。
それは日常生活にも支障をきたすほどで、
彼女に歩かせてどこか遠くに逃げることは難しい。
庭師の話では男はを抱き上げて歩いて出て行ったというのだから、
恐らく城の近辺に潜伏しているものと思われる。

何故なら、にはそれなりに良い物を着せている。
城の中をそのような女を抱いて横断することはまず不可能であるから、
離れに一番近い門(お誂え向きに見張りも少ない)から出たのだろう。
同じ理由で街中を歩くことも難しいだろうから、
その門から人一人を抱えてゆける山中に居るのではないかと推測した。

既に門番をしていた者を捕らえ、締め上げさせた。
その話によると、やはりらしき女をかかえた男が一人通ったらしい。

元就は苛々と采配を握り締めた。
山へよく入る者の話では、城の近辺にいくつか小屋があるという。
いくつかの存在は元就も知っていたが、
全てを挙げると中々の数になった。
それら全てに人をやり、近い所からしらみつぶしにする。

「一つ、人の気配がするものが」

その報告が来たのは、捜索を始めて小半時も経った頃だった。

「我が出る」

いつも使っている輪刀は、木々が繁る森の中では使えない。
限られた空間で扱うには向かない。
脇差のような小さな刀を差して、元就は案内にしたがって出発した。






「あのような事にならなければ、お嘉代だって幸せに暮らしていたろうに…」

草右衛門も狂っている、と思う。
この男は本当にお嘉代を可愛がっていたのだろう。
とても好きで好きで、死を受け入れたくなかったのだろう。

不都合な事実を受け入れないという選択は、甘美な毒のように心地よい。

「好いていたのですか」

「ふざけるな、俺はお嘉代の兄だぞ!」

男の叫び声に、空気が震えた。
殺されてしまうのだろうか、とふと思った。
怖ろしく無いとはいえ彼は一応刀を持った男で、
私には抵抗する術は一つもない。

それ以来互いに話す気になれず、無言のまま時間が流れた。
森の静寂がじわりじわりと小屋の中を侵食してゆく。

ぱきり

枯れ枝が折れる音がやけに大きく聞こえた。
草右衛門は刀を抜いて、に駆け寄った。
物音に集中すると、外の足音は躊躇い無く近づいてくる。

ごくり、と草右衛門が唾を飲み込む音が聞こえた。
緊張しているのだろう。

戸ががたがた、と鳴った。
つっかえ棒をしているから、開かない。
戸の向こうの人間もそれに気づいたのか、
一瞬の間をおいて戸を蹴破って入ってきた。

お一人だけでいらした元就様は草右衛門を一瞥し、睨みすえた。

「下郎、誰が触れて良いと言った。」

格が違う、と思った。
元就の視線に射すくめられた草右衛門は、小刻みに震えている。

「近寄るな!殺すぞ!」

「殺してみよ、できもせぬことを申すでない。
 見苦しい」

元就様は躊躇いも無く近づいてくる。

「うあああああ!!!」

そもそも、草右衛門は殺すつもりではなかったと言った。
庭師だって、止めなくても殺さなかったかもしれない。
ここまでの道中、彼の行動を支援した人間は皆、買収された様子であった。
誰も傷つけずにここまで来る手筈を整えたのだ。
草右衛門は、誰も殺せない。

「耳障りな声を出すな」

刀を振り上げた草右衛門との間合いを、元就様は一気につめた。
そして、抜いた刀の柄で彼の喉を潰した。
蛙が潰れるような音を出して、草右衛門は吹き飛んだ。
元就様は静かに歩み寄り、その手を刀で床に縫いとめた。

「……!!!!!!」

「楽に死ねると思うな。
 貴様にはたっぷりと愉しんでから死んでもらう」

元就様は刀を引き抜き、無表情のまま草右衛門の頬に傷をつけた。

「元就様、ご存知かと思いますが…」

、お前は黙っていろ」

声から、元就様の怒りが伝わってくる。

「それでも、申し上げとうございます。
 それ以上、酷いことはなさらないで下さいませ」

元就様が振り返った。その顔には怒りや落胆といった表情ではなく、
純粋な驚きが見て取れた。

「そなたは、そなたを誘拐した人間の命乞いまでするか」

「無碍に人が殺されるのを見るのは嫌でございます」

お嘉代だって、お万だって、殺されるほどの罪を犯しただろうか。
目の前でみすみす殺されるのを止められなかったのは、私。

「ふん…帰るぞ」

元就様がそう仰ったので、私はほっと溜息をついた。
その言葉が意味するところを完全に把握していなかったのだ。

元就様は草右衛門の太腿に刀を突き刺した。
声にならない悲鳴が聞こえた気がした。

「元就様…」

元就様は無言のまま私を抱き上げ、小屋を出られた。
小屋の外には何人もの臣下が並んでおり、
一様に安堵の表情をしていた。

「火を放て。
 中には塵しかあらぬ。」

「はっ!」

一瞬恐怖が顔に浮かんだものの、一人が松明を小屋に近づけた。
ここ数日雨が降っていなかったせいか火は驚く程早く広がり、
瞬く間に小屋全体に広がった。

元就様はそれを見届けると、そのまま歩き始めた。
大勢の人間の命を預かって戦を行うのだから、
そのために非情になる事を厭うのはただの臆病だ。
しかし、今小屋に火を放ったのは別種の感情である。

よ、我が怖ろしいか。
 我は狂っているか」

山道を歩きながら、元就様はそうぽつりと呟かれた。

「元就様は怖ろしくも、狂ってもおりませぬ。
 ただ、悲しゅうございます」

どんな犠牲の上にある生活だとしても幸せだ、
と思った自信が揺らいでいた。

「何が悲しい」

「あの者はお嘉代の兄でございました」

「同情など、最も不要の感情よ」

そう言われて、私は口を閉ざした。

「そなたは我の傍に居れば良い。
 勝手は許さぬ」

逃げることも、死ぬことも。

「そう仰らずとも、私は傍におりまする」

「勝手に消えておいてよく言えたものよ…頬を張られたか」

「はい」

「冷やす用意をさせる。
 そなたに触れて良いのは我のみよ」

それが元就様の愛し方。
大事に大事に、鳥かごに鳥を入れるが如く。

「容易く、離れてくれるな」

元就様の顔に一瞬、痛みに似た表情が浮かんだ。
であった頃に比べ、今の元就様は格段に多くの表情をされる。

「離れたいと思ったことなどございませぬ」

元就様に凭れた。
心臓が脈打つ音が聞こえた。
漸く、怖ろしいという感情が襲ってきた。

「離さないで下さいませ」

鳥かごに一度入った鳥は外では生きられない。
飼い主が飽きぬことをただただ、祈るばかりだ。
私は元就様の胸に頭を預け、暫く鼓動を聞いていた。