箱庭の姫君
躑躅の花が開く頃、私は離れに戻った。
離れの壁は塗り替えられ、畳も入れ替えられていた。
庭の木も一部が植え替えられ、躑躅が葉を隠す程に咲誇っていた。
お嘉代やお万の痕跡はどこにも見当たらなかった。
元就様は以前と同じくたびたび離れを訪れては、
暫く会話をして帰ってゆかれる。
時折冷たい顔に微笑みが浮かぶのを見るのが楽しい。
お万の代わりの女中を元就様はお雇いにならなかった。
お城の女中を日替わりで離れに差し向けてくださる。
前の二人とは異なり、離れには複数の女中が出入りするようになった。
彼女等は忙しなく動き回って一気に仕事を済ませてしまい、
控えの間から出てこようとしない。
私が話しかけてもびくびくと怯えているので、
良い関係など築けるはずも無かった。
それでも、一度袖を引いて声をかけた。
何故、皆私を避けるのか、と。
気の弱そうなその女中は、泣きそうな顔をしながら答えてくれた。
「元就様にきつく言い含められているのです」
それだけ言って、女中は逃げるようにして部屋を出て行った。
私は完全に浮世から隔絶されている。
そう思っても、別に特別な感慨は無い。
何不自由ない生活をさせてもらっているし、
完全に一人ぼっちという訳でもない。
「そろそろ枳殻も咲きますか?」
「へぇ、そろそろ。
お持ちしましょうか?」
「いえ、もうそろそろかしら、と思っただけ。
庭に不満がある訳ではないの」
「有難うございます」と庭師は頭を下げた。
お万の一件以来、彼に話し相手になってもらっている。
話し相手といっても、今のような問答が時々交わされるばかりだ。
それでも気晴らしにはなる。
時折この時期の花の話をしたり、元就と見る約束をした紫陽花の話をする。
恐らく薄紅色の花が咲くだろうとの話だった。
穏やかに、ゆるゆると時間は過ぎていった。
変化するのは季節の花々くらいなもので、
や離れを訪れる少数の人々には何の変化も起こらなかった。
だからという訳ではないが、
はこの生活がずっと続くと思っていた。
しかし、離れの外の世界では着実に変化が起こっていた。
の預かり知らぬところで少しずつ、ゆるゆると。
ある日の事であった。
離れの庭から見知らぬ男が入ってきた。
一瞬元親かと思ったが、その考えの浅はかさに自嘲した。
その男は顔面蒼白で、唇は真っ白だった。
余程緊張していたのだろう。そのとき私は離れで一人庭を眺めていた。
女中は控えの間から出てこない。
「誰ですか」
「騒ぐと殺す。
大人しく…大人しくしていてくれ」
あまりに泣きそうな顔をしていたので、男を哀れに感じた。
どうしようかと逡巡していると、
庭師が男が入ってきた通用口から現れた。
「だ…誰だお前――…」
「静かに」
私は大声を出しそうになった庭師を止めた。
庭の中央に立つ見ず知らずの男が腰の刀に手をかけたからだ。
彼には一度命を救ってもらったのだから、その礼を返さねばならない。
「用件は」
「お連れ申し上げる」
「お一人ですか」
「無論――…仲間は居る」
「ついてまいりましょう。
ただし、人は殺さぬように」
「承知。
では、失礼」
男は少し遠慮がちに私を抱き上げた。
彼は足が不自由な事を知っていたのだ。
そこに少しばかり驚いた。
「貴方は…」
「……」
男は私の重みを苦にする様子も泣く歩き始めた。
庭師が複雑な表情でこちらを見ている。
元就様に。
そう、口を動かしたところ、庭師は悲しそうな顔で頷いた。
私が頼ることが出来る人間など、この世に一人だけしか居ない。
の姿が見えなくなると、庭師は足を縺れさせながら走った。
早く、早く知らせなければ…。
連れて行かれた先は山小屋だった。
元就様が居る城からも程近く、別段隠してあるような様子も無い。
男は息切れ一つせず、私を抱きかかえたまま山道を登った。
見たことがある顔のような気がするのだが、
こちらに来てから庭師と元就様以外の顔を見たことが無い。
はて、一体誰であったかと暫く悩んでいて、
山小屋についたあたりで思い出した。
「貴方は、お嘉代の…」
「覚えておいででしたか…。
そうです、私はお嘉代の兄で、草右衛門と申します。」
困ったような微笑を浮かべると、お嘉代の面影がある。
私はお嘉代との楽しい思い出と、
彼女が殺された血に塗れた思い出を同時に思い出して複雑な気分になった。
「…話に聞いております」
「私も、お嘉代から貴女の話は聞いておりました」
お嘉代の幸せそうな笑顔を思い出す。
可哀想な、お嘉代。
「復讐でございますか」
「……私怨でご迷惑をおかけして申し訳ない」
「いえ、慣れておりますれば」
その言葉に男は目をしばたかせたが、
合点がいったのか悲しそうな表情になった。
「お嘉代は良くしてくれました」
「良い妹でした。
貴女を慕っておりましたし、
『姫様にお話したい』と色々な話をせがまれました」
兄の前で必死にそう訴えるお嘉代が目に浮かんだ。
草右衛門も思い出したのか、相好を崩した。
「――…外の世界を見る私の目であり、耳でございました」
「今は?」
草右衛門の真っ直ぐな視線が痛かった。
「私には、この両手が届く範囲の世界しかございませぬ」
「脚を斬ったのはあの毛利元就本人なのだと聞いております」
私は草右衛門の視線があまりに居心地が悪かったので、顔を背けた。
誘拐し、脚を切り、世界を奪ったのは毛利元就。
その事実は隠しようもない。
「別にあなたに死んでもらいたい訳ではない。
ただ、大した理由も無く家族を消される人間の気持ちを、
少しだけでもあの男に理解してもらいたかっただけなのです」
「貴方自身の命を賭しても、ですか」
「もとより、覚悟の上です」
でなければ、このような場所まで貴女を連れてきたりはしない、
と微笑みながら言った。
近頃、元就様としか会話らしい会話をしていない。
何故微笑むのか、理解できなかった。
「貴方が思っている以上に、私は元就様に思われていないかもしれませぬ」
「貴方以外の人間の誰よりも、
元就は貴方を思っているという確信があります」
草右衛門はそこでふ、と真顔になった。
「何故なら、貴方は生かされている」
「何をしていた」
元就は怯え、小さく縮こまっている庭師を睨みつけた。
彼の話を聞く限りでは、
はこの庭師の為に大人しく連れて行かれたという事になる。
それが何より腹立たしい。
女中は既に牢に入れた為、離れには人の気配が無い。
ただ、躑躅ばかりが美しく咲いていた。
「この近辺の山に詳しい者を呼べ」
元就は踵を返した。
まあ、良い。
その
を連れ去った男を八つ裂きにすれば、
少しは腹の虫も収まるだろう。
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