箱庭の姫君
元就様がどうお考えなのかは分からないが、
庭のお手入れはとても気を配ってくれる。
眺めるものといえば庭しか無いことをよくご存知だ。
とても、おやさしいことだ。
元親がつけた痣はすっかり癒え、憂うところ無く日々をすごしている。
元就様は以前よりもたびたび訪れる。
今日も正午過ぎにこちらにいらした。
元就様は日ごろから驚く程いろたくさんの仕事を抱えている。
近頃では珍しく数日間ずっと離れに来なかったのは、仕事が立て込んでいたからだろう。
いつもは冷たい光を宿した目が今日は少しだけ疲れているようで、
鋭さが幾分和らいでいた。
「元就様、お疲れのようですが…少し休まれては」
「八つの刻に人に会うゆえ、休んでなどおれぬ」
ふい、と顔を背けられた。
その横顔はまたどこと無く疲れていそうで、私は不安になる。
「では、私がそれまでに起こして差し上げます。
どうかお休みください」
元就様はこちらを奇妙な物でも見るような目で見た。
「女中は下がるよう言っている。
お前は呼びに行くことはできぬ。
我に行けというか?」
この離れに来たばかりの頃なら命の覚悟をすべき言葉だったが、
今は比べるべくもなく柔らかい声音で言う。
「板の間で横になるのがお嫌でなければ、膝をお貸しいたします。」
元就様はしばらく何事か思案していたが、
「休む。半刻前に起こせ」とおっしゃって横になった。
余程疲れていたのか、すぐに規則正しく寝息を立て始めた。
かわいらしい寝顔。
元就様の能面のようなお顔も、寝ているときは親しみを感じる。
庭の桃は満開で、桜はもうつぼみを膨らませていた。
空気も随分温み、もう火鉢の必要は無い。
風邪をひいてはいけないと、打ち掛けを脱いで元就様にかけた。
この離れにも住み慣れた。
お万の無口にも慣れた。
手慰みにと字も覚えた。
こんな長閑にずっと時間が過ぎれば良いのに。
そう思った。
それが人として当然の願いだからだと思う。
お万はその様子を襖のすき間から覗いていた。
ここの離れの世話を仰せつかったときは、
前のお嘉代とかいう娘が殺された直後ということもあり恐ろしかった。
しかし、ここに囲われている娘も悪い人間ではないようだし、
元就が来ている間はお万に仕事は無い。
ここに来るときの元就様はとても穏やかだ。
美しいお顔を笑みで崩すときもたまにある。
そんなの、元就様ではない。
お万はそう思っていた。
現に離れを出た元就様は冷酷で、残忍だ。
彼の本来の姿はその、誰も寄せ付けない冷たさにこそ見つけられる。
あの女が悪い。
そう思ったのも無理からぬ事だった。
ある日、元就様がいらっしゃると事前に下男がやってきた。
女には用があるといって離れを飛び出し、女中がたむろする部屋に駆け込んだ。
その中でも、とびきり字の上手い一人に代筆を頼む。
あいみての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思わざりけり
百人一首にある有名な歌である。
逢瀬を果たした後では、昔は何も考えていなかった。
そんな歌である。
自分で歌を作れぬために、拝借した。
また急ぎ帰って、庭師に頼んで離れの庭以外の桜の枝をもらった。
先ほど書いた文をそこに結わえて、元就様の約束の刻限直前に、
に手渡した。
これで、良い。
これで元就様はずっと、元就様らしくあることができる。
「もうすぐ元就様がいらっしゃいますので、私はこれで」
が文を開く前に離れを出た。
いい気味だ。
お万から渡されたのは、つぼみがある桜の枝だった。
真ん中にきれいに文が結わえられている。
元就様がこういう文を下さることは、無い。
私は文を解いた。
あひみての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思わざりけり
あひみて…?
ここに来てから、会う人間はごく限られている。
それに、この「あう」は「会う」では無い。
男女の仲になる、という意味で歌われているのでは無かったか。
す、と音も無く襖が開いた。
振り向くと、元就様がそこに立っていた。
「
、何を持っている」
迷いなく、まっすぐ元就様が近づいてくる。
その表情に変化は無いが、不機嫌であることはわかる。
そのままの表情で私の手から手紙を奪い取った。
私は元就様を見上げた。
元就様の眉間に、みるみるうちに皺が寄る。
「誰からだ、言え」
胸倉をつかまれた。
苦しい。
「あの長曽我部の大うつけか」
「元就様、誤解にございます」
「何が誤解か、我を馬鹿にするな!」
突き飛ばされた。
そのまま床に倒れこむ。
「この…下衆が」
初めて会ったときよりも冷たく、凍てついた目をしていた。
ここで余分に生きていた人生も終わりかと思うと、少し残念だ。
「聞いていただけぬのでしたら、これまでにございます」
恐怖も度が過ぎると笑ってしまうようだ。
私は自分の顔が笑っていることに気がついた。
「何が可笑しい!」
元就様が怒っている。
これほど怒っているのは久しぶりのことだった。
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