箱庭の姫君


「あの下衆野郎、何が調停だってんだ!!」

元親は全力で巻物を床に叩き付けた。
普段そう怒りを面に出さない人柄なだけに、周りの兵士も驚いてしまった。
床をころころと転がった巻物には、美しい文字が並んでいた。

の顔を思い出す。
小さい頃、まだ自分が姫若子と揶揄されていた頃。
は大事な遊び相手だった。
乳母の娘だった。

最近は別に会ってはいない。
しかし、だからと言って見捨てることなど出来ない。

「野郎共、戦の準備だ。
 調停は破棄だ!」

元親はそう吐き捨てるように言った。
「任せろ、兄貴!」と言いながら、あらくれ達は方々へ散っていく。


久しぶりに会う。
元気だろうか。
何故、彼女にまで害が。

「来るなら正面から来いってんだよ、糞っ!!」

怒りで腸が煮えくり返る思いだった。





「元就様。
 庭の梅が満開でございます。
 桜の季節が楽しみでございます」

時折来る庭師は、私を同情の目で見る。
隣で庭を見ながら茶を飲む元就様には、そういう下男は見えていないらしい。

「ふむ」

元就様は別に何かをする訳ではなく、ただ短いお話をして帰られる。
最近の唯一の話し相手だ。
元親は元就様と争うのだろうか。
だとすれば、とても悲しい。

「今日は新しい打ちかけを用意させた。
 桜の柄は嫌いか?」

「いえ、好きです」

「そうか」

元就様は感情を表す必要が無さ過ぎて、
感情を表に出す方法を忘れてしまったように思える。
私がどうにかして差し上げるということは出来ないが、
人として認知されているからには温かく見守りたいと思う。

「元就様…お耳を…」

こそこそと、誰か知らぬ人が元就様に御注進に来た。
よくその役割の人は交代する。
元就様の事だから、殺してしまったのだろうと他人事のように思う。

「漸く来たか…迎撃の態勢を整えよ。
 我が出る」

元就様はすっくと立ち上がった。
その姿にはどこかしら気品が感じられる。
誰も寄せ付けない美しさというのは、近くで見ると痛い。

元就様が離れを出てから少しして、桜の打ちかけを持った女中が来た。
薄紅の桜が白い絹の上に散った、すっきりとした美しい柄だった。
元就様は趣味が良い。
凛とした柄を好まれるようだ。

羽織ってみた。
新しい衣には既に、香が焚き染められていた。
いい香り。
元就様はこういう風雅は理解されるのに、何故人を駒のように扱われるのか。

風が吹いて、梅の花びらが舞った。
庭の池に落ちる。
池の錦鯉がたぷん、と水面に波紋をつくった。
花びらが揺れる。

まるで自分はその花びらのようだ、と思う。
自分の意思では動くことが出来ない。
その一点にのみ、同調できる気がした。

にわかに生垣の外が騒がしくなった。
が出ることが出来ない、外の世界である。

!!」

誰かが走ってきた。
そちらを見やる。
元親が立っていた。
いつ失ったのか、左目は無い。

「元親…?
 久しぶり」

立ち上がらない。
腱を切られてから、立ち上がるのが酷く億劫になった。

…なんでこんな所に居るんだよ」

元親が駆け寄ってくる。

「判らない」

「帰るぞ」

元親が土足で上がって、私の腕を掴んで立たせた。
袖の桜の模様が揺れる。

「お前、脚、悪いのか?」

私は首を横に振る。
見る見る元親の表情が険しくなった。

「兄貴ぃ、人が集まってきてるぜ!!」

門の外に仲間が居るらしい。
彼はきっと皆に慕われているが、もう私と遊んでいた頃とは違う。

「ごめん、ね?」

私は元親の手を離した。
彼は驚きで、少し間抜けな顔をする。

「何を…」

「此処に残ります」

「馬鹿言ってんじゃねぇ!」



「だって、元就様はいつも一人なんですもの」



元親は酷く傷つけられたような顔をした。

「そう…決めたんなら、良い。
 引き上げるぜ、野郎共」

それ以上何も言わず、元親はそのまま去っていった。
ごめんなさい、ありがとう。
私は元親が大好きだ。

掴まれた腕を見ると、手のあとがくっきり残っていた。
本当に成長して。
姫若子ではなく、もう鬼なのだ。

「何をしている」

元就様が後ろに立っていた。
いつ現れたのだろう。
元親がこちらに来るのは彼の手の内だったのだろうか。

「いえ、何も」

「手を見せろ」

腕を引かれた。
元親がつけた手の痕。

「貴様は何を考えている…何故逃げぬ?」

元就様の手は元親のよりも小さい。

「ここに居たいと思いました」

「なら、何故あのような下衆に会う」

ぎり、と私の腕を握りしめながら、冷たい目で私を見る。
怒っている。
まるで、小さな子供のようだとさえ思う。

「来たから、でございます」

「それは我も同じであろう」

「違います…違います」

元就様の頬に触れてみた。
滑らかな肌には吹き出物など一つもなく、
つるつるしている。

「私は此処に残ると、自分で決めました」

元就様に会うために。

頬をはたかれた。
元からバランスが悪いので、その場へ倒れこんだ。

「ならば、もう、我以外の誰にも会うな」

「…はい」

「もう一方の腱を切るのは不自由であろう。
 一つ切れば充分よ。
 喉は潰さぬ。
 お前は我と話すのが役割よ」

「……はい」

元就様は私を引っ張り上げて抱きしめてくれた。
なんだか不思議な気分になる。

元就様、元就様。
私は絶対逃げません。
ですから、もう、悲しまないでください。
私は、感情があることが判っただけで充分です。