姫若子の宝物


予定外に元親に出会ってしまったので、妙に動揺しながら仕事部屋に戻った。
「だいぶ顔色良くなりましたね」などと気軽に同僚が言ってくれる。

戻ってくると、目下の懸念がよみがえる。
忘れていたとは余程動転していたのだろう。
紙の裏の裏は表であるように、動転に動転を重ねれば落ち着けたら良いのに。

勢いで元親との月見の宴が決まったが、彼に相談なんてできない。
相談したところで、事態が好転するとは思えない。
近況は端折れば良い。

休んでやろうかとも考えたが、
今の彼ならば家に押しかけてくるという最悪の展開も予想される。
だから、それも出来ない。

元親に掴まれた腕はまだじんじん痛んだ。

には限られた選択肢しか与えられていない。
とりあえず、日没までの時間を潰さなければならない。
自分の身の振り方を考える時間はたっぷりあった。





考え事をしていると時間が経つのは早いもので、
すぐに日没の時間が迫ってきた。

はまだ決めあぐねていた。
戦艦の設計図を豊臣に渡しさえすれば、元親の身の安全は保障される。
それは喉から手が出るほど欲しい状況である。
しかし、果たして元親がそれを良しとするだろうか?

否、問題をすり替えている。
自分は無意識のうちに、自分の意識を反映させていたに過ぎない。
からくりの知識は元親に供するためでもあったのではなかったか。
ならば、豊臣に下ることなど容易くは無いだろうか。
思考は堂々巡りを繰り返す。

もやもやした気分のまま、約束の場所へ向かった。
歩きながら考えていると、なんどか階段で躓いた。

庭からこっそり入ると、すでに座は用意され、障子も襖も取り払われていた。
用意された広間で元親が一人で飲んでいた。

「よう、遅かったな。
 座れよ」

「本当に用意するんだから、や――…元親もかなりのうつけだな」

「はは、違い無ぇな」

は設えられた席に座った。
漆塗りの膳に漆塗りの椀。
鳩酢草の蒔絵が美しい。
どれもが長曾我部家が客人の為にのみ使用する高価なもので、
は一度しか見たことが無い。

「これは?」

「良いだろ?
 使ってこそのお宝だ」

元親はぐい、と杯を傾けた。

「で、聞かせてもらおうじゃねぇか。
 十年もどこほっつき歩いてたんだよ?」

「はいはい…その前に、私も貰おう」

「注いでやるよ」

横柄な態度で杯を差し出すと、元親は笑いながら酒を注いだ。
少しだけ口に含むと、甘露のような香りが口一杯に広がった。

「高い酒だな」

「おうよ、取っておきだ。
 ほら、さっさと話せよ」

「姫じゃなくなってせっかちになったのか?」

「うるせぇよ」

苦笑する。
その顔は屈託無く笑っているとは言いがたく、
彼も苦労してきたのだと判る。
が知らないうちに彼に何があったのだろうか?

は元親にせがまれるままに旅をした十年の話を手短に話した。
元親は時折杯を傾ける以外には動かず、耳を傾けている。
戦場の事、からくりの事、戻ってきてからの事。
話すことは多くない。

元親はどうだと聞くと、つまらなさそうに答えた。

「親父に無理矢理戦場につれてかれて、四国を統一しただけだ」

その間に父が死に、左目を失った。
ただそれだけだ、と元親は言った。

空を見上げると、満月が穏やかに微笑んでいる。
その顔に雲が少しかかり、光を遮っている。

「長ぇよ、十年は」

そう、呟いた。
には問いただす勇気も、顔を見る勇気も無かった。
誰しも、言いたくないことの一つや二つ隠し持っている。

「そういや、お前男居るのか?」

「……失礼な聞き方をする奴だな。
 しかし、残念ながら独り身だ」

「そうか。
 なら、俺の所へ来ねぇか?」

「はぁ!?」

驚いたので、元親の顔をまじまじと見た。
彼は穴が開きそうなほどまっすぐに此方を見ている。
そうと知ると、途端に居心地が悪くなる。

「嫌かい?」

「元親、頭は大丈夫か?」

「ああ、俺の頭ははっきりしてる」

「そりゃ良かった。
 良くないけど」

失った片目に女々しさを全て詰め込んで捨てたのだろうか?
は苦笑した。

「駄目、なのか?」

「お互い大人なんだから色々あるだろう」

「家か?」

「違う」

は元親の命運を握るかもしれない選択を迫られているのだ。
そう易々と答えられない。

「何だよ、それ。
 何で泣いてんだよ、お前」

泣いている?
は自分の頬を流れる液体を拭った。
泣いている…のかもしれない。

元親はの腕を彼の方へ引いた。
不意の事だったので、は彼の胸板に強かに鼻をぶつけた。
抱きしめられていると理解しても、痛い鼻が気にかかって仕方が無い。

「好きだ」

「……そう」

「好きだ」

「……聞いた」

「好きだ」

「……知ってる」

「返事は無ぇのか?」

は答えられなかった。
明らかに、どうにかしてこのあからさまな状態から意識を逃がそうとしている。
それは何故か。

元親が好きなのだ。

彼がどんなに変わろうとも、が好きな弥三郎である事は間違いない。
自覚するのにどれだけ時間がかかったのだろう。

だからこそは半兵衛の提示を飲むことを決めた。