火の粉
「車を回して来い」
サウザーの命令に従うべく
は廊下を歩いていた。
駐車場につながる出口にはいつも警備の人間が一人立っている。
しかし、その日はなにやら様子が違っていた。
「中に入れろ!」
一人の男が叫び、二人に増えた警備員がその男を押し返していた。
面倒な場面に出くわしたなと
は思ったが、
サウザーの機嫌を損ねることよりは、
その騒ぎを突っ切るほうがマシだと判断した。
歩みを止めずに駐車場に出ようとすると、
騒いでいた男が
の腕を掴んだ。
「おいお前、サウザーの女だろう!」
サウザーの名前が出たことで、警備の人間の手も止まり、
その場に居た全員の視線が
に注がれた。
「……違います」
ただの秘書である。
自分でも少し驚くほど冷たい声が出た。
そのそっけない返答が火に油をそそいだのか、
男は更に大きな声を出した。
「嘘をつけ!
お前はサウザーの代理といって家に来ただろう!
弟のことなど忘れたか!?」
はまじまじと男の顔を見た。
そんな対応をしているので、
警備の人間も行動に出られないのが分かる。
今振り切らなければ車をまわすのが遅くなり、
機嫌を損ねたサウザーから嫌味の一つでも貰わねばならない。
しかし、その男の顔にはぼんやりと見覚えがあった。
「……先月、確かに伺いました」
サウザーが殴り倒した男の兄である。
見舞いに顔を出したが、勿論ながら良い顔はされなかった。
命知らずにも喧嘩をふっかけたのは彼の弟で、
たとえ重症であっても生き延びたのは奇跡に近い。
サウザーは最初、殺すつもりだったと居合わせた別の人間から聞いた。
その弟のあまりに無様な様子に途中で興味を失ったらしい。
は気が重くなった。
体つきから考えても、
目の前でわめく男も何かしらの拳法を身につけているとは思えない。
「何故本人は謝罪の一つもしない?
弟はまだベッドから起き上がることもできないんだ!」
棺に入らなくて良かったですね、という言葉を飲み込んだ。
輪切りの肉片をつなぎ合わせた遺体など見たくないだろう。
本当にそう思ったのだが、
状況を好転させる言葉ではないことは明白である。
「先日お持ちしたもので納得して頂くというお話だったと思いますが」
サウザーは謝罪などしない。
が謝罪したことも知らない。
そのときに、いくらか包んでいることも知らない。
としても、これ以上関わる理由は無かった。
男は何事かまだ叫んでいる。
はその言葉を聞き流した。
どうせ言いたいのは示談金の上積みか、
サウザーからの謝罪の要求である。
示談金の出所は
の財布であり、これ以上の余裕は無い。
サウザーの謝罪など到底実現不可能である。
これ以上どうすることもできない。
だからといって適当にあしらっていたとしても、
サウザーに直接訴えれば返り討ちに遭うことは確実である。
どうすればこの場を丸く収められるのか。
は脳みそをフル回転させて考えた。
回転させながら、
感情を爆発させる男が多少羨ましくなった。
が不審者に絡まれているという報告が入ったので、
サウザーは苛々しながら廊下を歩いていた。
不審者ごとき、
が本気を出せば一瞬で殺せる。
それをしないのは殺せない程度の腕前の人間か、
殺せない立場の人間かのいずれかである。
面倒事に巻き込まれてくれたものだと思いながら角を曲がると、
駐車場への出入り口が見え、
その奥で男が
の腕を掴んでいるのが見えた。
ドアが開け放たれているので、
妙にエコーがかかった声も聞こえる。
サウザーは何様のつもりなんだ!
弟が!
何か言ったらどうなんだ!
返す言葉など無いよな!
その叫び声がよく似ていたので、
何の心得もない男に絡まれたことを思い出した。
何の心得もないのを装っているのかと思いきや、
本当に何もできずに倒れたので興ざめだった。
その後は知らない。
何故
は律儀に暴言に付き合ってやっている。
その兄が何だというのだ。
誰の許可を得て敷地内に入った。
誰の許可を得て
に触れている。
「用があるのは俺だろう」
叫ぶのに夢中だった男はサウザーの方を見て、
そして顔がみるみる赤くなった。
は一瞬驚き、悲しそうな顔をした。
何を悲しむ必要があるというのだろうか。
「己の実力も省みず、挑んできたのは貴様の弟だろう。
違ったか?」
を掴んでいた男の手を掴み、ひねり上げる。
弟よりは多少鍛えているようではあるが、大差は無い。
殺す価値も無いクズである。
「この場は生かしてやるから今すぐ失せるか、
それとも今すぐ人生を終えるか選ばせてやろう」
腕を切り落とさずに、掴む程度で許してやっているのだ。
この位置ではどうあっても
に血飛沫がかかる。
それでも男はわめくので、
面倒になって顎を張り飛ばして気絶させた。
それから警備の人間に「つまみ出せ」と命じた。
これで終わりである。
も最初からそうすればよかったのに、妙なところで甘い。
突っ立ったままの
を見やる。
顔色が悪い……ような気がした。
倒れた男への苛立ちを込めて舌打ちをした。
「さっさと帰るぞ」
サウザーがそう言うと、
は「はい」と小走りに車に向かった。
わが身に降りかかる火の粉も、
適当に払えば
に迷惑がかかるものであるらしい。
ならば次からは徹底的に払うしかないな、と思った。
ともかく、
今はあの男が意識を取り戻すまでに早急にこの場を離れるに限る。
『ありがとう』を言いそこねた。
結果的に、
はサウザーに助けられた。
礼を言おうと顔を見上げたときにサウザーは舌打ちし、
『さっさと帰るぞ』と言った。
その険しい顔を見て、
は礼を言う勇気を失った。
運転しながら、バックミラー越しにサウザーを見た。
不機嫌そうな顔で窓の外を見ている。
遅れたことに対する叱責は無い。
それがお前の不手際のせいで面倒なことになったと言われているようで、
は暗澹たる気持ちになった。
今回の闖入者はパンチ一つで済んだが、
今後はどうなるか分からなかった。
もっと酷いことになるかもしれないとも思った。
彼がこのままおとなしく引き下がってくれることと、
今後二度とそんな輩が出てこないことを祈るばかりである。
は酷く暗い気持ちで、バックミラーから視線を外した。
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