Cassandra
はマンガを読んでいた。
より詳細に説明するならば、「北斗の拳」を読んでいた。
11巻も終盤にさしかかり、南斗の将星が師父にすがり、
そして十字陵が崩壊してゆく場面である。
「うおお、サウザー……」
勢いとしてはこのまま滂沱の涙を溢れさせたいところだが、
残念ながら涙は流れなかった。
いくら辛い過去があったからといっても、悪人に違いは無い。
もし彼が隣の席だったら視界に入れないようにするだろうし、
お隣さんならできるだけ関わらないように気を配るし、
とにかく距離を置きたいタイプの人物である。
しかし、次元の壁をはさんだ程度の距離があれば同情もする。
途中の行いの悪さが目に付くので、
一発ぐらい殴らせてくれたら許してやろうと思う。
所詮マンガの中の出来事である。
いくら子どもが強制労働に従事させられていようとも、
多くの無辜の命が犠牲になろうとも、
知ったこっちゃ無い。
(生き残ってくれて良かったのに)
もし生き残ったならば、
彼の行動のツケが一気に押し寄せるだろう。
それもまた面白かったのではないか、と。
少し残酷な気持ちである。
ぱらぱら、と雨粒が窓を打つ音が聞こえてきた。
そういえば、洗濯物を外に干している。
現在のところ、家に取り入れられる人間は
以外には居ない。
「やばっ……」
手にしていた単行本を机に置き、慌てて外へ出る。
予想外に激しい雨が降り始めた上、
雷でも落ちるのかゴロゴロと音がなっている。
一秒でも早く取り入れて、
洗濯物へのダメージを最小限に食い止めなければ。
がハンガーに手を伸ばした、そのときである。
耳を劈くような爆音が鳴った。
視界が白い光で一杯になる。
(雷に打たれて死ぬ……!?)
そんな冗談みたいな死因は嫌だ。
そう思ったが一向に死ぬ気配は無い。
それどころか、頭上から雨の代わりに紙ふぶきが落ちてくる。
「おめでとうございます!
貴方はええと今何人いたっけ?
……ま、いいか。
とりあえず全人類のうち一人だけがつかめる幸運、
『人間の願い叶えまSHOW』に当選されました!
おめでとうございます!」
真っ白な世界の中に赤と金色の派手な格好の若い男が現れた。
「はあ?」
が顔を顰めると、男は「たはー!」と大げさに呆れた。
「ご存知ないかー、まあ当然ですけれど!
貴方が先ほど願った、漫画『北斗の拳』の世界の登場人物、
サウザーが生き残る未来を作る権利を差し上げます!
太っ腹!」
「いりませんから帰らせてください」
前述の通り、それほど真剣に願ったわけではない。
むしろほくそ笑んでやろうというどす黒い腹の内である。
「ご辞退なされると!?
しかし、貴方の運はこのチャンスで殆ど使い果たしました。
戻られるとなると、落雷に打たれて生き残れるかどうか……。
まあ、ご本人が強く望むなら致し方ありません。
元の世界に戻る、でファイナルアンサー?」
男がいつの間にか取り出したマイクを
に向ける。
随分軽い調子で聞いてくれるが、聞き捨てなら無い部分があった。
「雷に打たれたの?」
「はい。
およそ三割程度死ぬとされていますが、
先ほど申し上げたとおり、運を使い果たしておりますからね。
どうなるか」
やれやれ、と男は肩をすくめる。
いちいち動きが大げさだ。
「北斗の世界に行って、戻れるの?」
「勿論!
願いを無事達成されましたら、意思の再確認に伺います」
「失敗したら?」
「失敗したら。
ネガティブですね。
今の所、途中棄権は死亡された方のみとなっております」
これは夢だ。
夢に違いない。
おそらく雷に打たれ、失神し、そうして夢を見ているのだ。
夢ならば、楽しそうなほうを選んだって良いだろう。
どうせいつかは目が覚める。
「じゃあ、行きます」
が言うと、男は「ファイナルアンサー?」と尋ねるので、
「ファイナルアンサー!」と半ばヤケになって答えた。
「では、『北斗の拳』の世界へご招待いたします。
貴方には過去をダイジェストで御覧いただきましょう。
関わるも関わらぬのも、貴方次第。
さあ、貴方の根性を見せていただきましょう!」
男はいつの間にかとり出したハリセンを
の頭に叩きつけた。
痛みはなく、
随分と良い音がするんだな、と無関係なことを思った。
次の瞬間には男の姿はなく、
の足元にはかごで眠る赤ん坊が居る。
そのすぐ隣でヒゲの男がヤギの乳を搾っている。
「だあ」
赤ん坊が
に向かって手を伸ばしたようでドキッとしたが、
男はそれに気が付いて赤ん坊を抱き上げた。
すぐに場面は代わり、少年が川で魚を取っているのが見えた。
その次はその少年が石柱を素手で切り裂いている。
傍にはあのヒゲの男が常に居て、その少年を見守っている。
(サウザーかな、たぶん)
はそれを生ぬるい視線で見守っている。
ヒゲの男はオウガイだろう。
漫画のシーンの再現である。
場面がまた、変わった。
少年は随分成長し、サウザーらしい見た目になっている。
「みごとだサウザー!!」
オウガイが言う。
土砂降りの雨が二人に打ち付けている。
見ているだけのはずなのに、
も一緒にびしょぬれである。
「これを……」
オウガイがポケットから何かを取り出した。
「これは先代から預かったもの。
鳳凰拳の伝承者に代々伝わるものだ。
私よりもサウザー……おまえの方がずっと相応しい。
将星としての道を歩めなかったわしよりも……」
サウザーがそれを受け取った。
そんなシーンはあっただろうか?
というか、
そんな大事な物をポケットに入れていて大丈夫だったのだろうか。
うっかりすると壊れてしまいそうな気がするが。
「わしは…わしはおまえの瞳の中に極星、
南斗十字星を見ていたのだ…」
「お…お師…お師さーん!!」
若いサウザーが泣く。
呼びかけにオウガイが応えることはもう、無い。
「こんなもの……!」
サウザーが手にしていた物を投げた。
の足元までそれがころころと転がってくる。
拾ってみると、メダルのような円形の飾りだった。
首にかけるリボンが無いので勲章のようにも見える。
横向きの棒の両端が跳ね上がった十字の模様と、
周囲に放射状にならぶ短いライン。
それらが随分高価そうな素材で作られている。
宝石がちりばめられているように見えるが、
暗くてよく確認することができない。
明るかったところで、
本物かどうか確認できるような技術は無い。
サウザーはオウガイの死体を抱きかかえて絶叫している。
赤ん坊だった頃の笑顔をついさっき見たところである。
人の心が潰れる瞬間の絶叫は、聞く者の心も傷つけるらしい。
は視界がじわじわと暗くにごってゆく中、
泣き喚くサウザーを目を離すことができずに眺めていた。
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