わがままな


リュウガが部屋に入ると、は上体を起していた。
ほっそりとした手で膝の上の本を支え、
印刷された文字に落としていた視線を上げた。
その集中を途切れさせたのは紛れもなくリュウガ自身で、
はすぐに本を閉じて「おはよう」と言った。
顔色も良く、頬が薄っすら赤くなる程度には血の気がある。

「今日は調子が良さそうだ」

と言うと、

「ほんと、散歩にでも行きたいくらいだわ」

は言った。
リュウガは笑いながら「やめてくれ」と言った。

の病状は芳しいと言える状態ではなかった。
打つ手が無い。
すぐ近くに死が待っているのが見える。
その事実を考えるだけで胸が締め付けられるように痛んだ。

「本当よ?
 お願い、ちょっとだけで良いの。
 みんなの顔が見たいの」

ベッドに座るより、
立っているリュウガの頭の方が高い位置にある。
見上げるような彼女の視線に、少し心が揺らぐ。

「だめだ」

きっぱりと断りながら、リュウガは朝食の準備を進めた。
トレイに乗せてきた皿の上には胃に負担のあるようなものは無く、
色の薄いものばかりが並んでいる。
これでは体力が万全でも力が出ないのではないかと思ったが、
彼女には力を出す場面など訪れないのだ、と自分で打ち消した。

「ほんの少しだけで良いから、ね?」

リュウガの手を、の薄い手が掴んだ。
ひんやりと冷たく、生きているという実感のあまり湧かない手である。

「そうだな、俺が横抱きにして行くので良いなら許そう」

半ば冗談でリュウガが言うと、は真剣に考え始めた。
いわゆるお姫様抱っこの状態で練り歩くのは、
どう考えても彼女の趣味ではない。

おとなしく朝食を済ませた後、
は「やっぱり外に出たい!」と駄々をこねた。

「さっきも言ったが……」

「歩けなくなったら、お願いして良い?」

随分と前向きな方向で考えてくれたものだ。
恥ずかしくないのかという疑問とともに、
その程度には信頼されているという喜びが頭の中でない交ぜになる。

「俺が駄目だと思ったら……」

「よろしくおねがいします」

「恥ずかしい!」という返答を予想していただけに、
のこの反応には少々驚いた。
しかし、それでこそ彼女なのかもしれないと思う自分も居て、
リュウガはどんな表情をすべきなのか分からず大変困った。






の支えになるよう、
リュウガはその隣をゆっくりと歩いた。
常にせかせかと歩いていたのだな、と思うくらいにの歩みはのろい。
しかし、それは不快ではない。

腕を組むと表現するには、はリュウガに体重を掛けすぎている。
しかし、それも拒否する理由は無い。
基本的には己の体調を隠すが、
衰えを感じさせる役にリュウガを任命してくれた。
それが嬉しくもある。
あと何回こうして並んで歩けるのだろうか。

追い越していく者も、すれ違う者も、
には笑顔で「頑張ってますね」だとか、
「今日は随分顔色が良いですね」だとか、声をかけていく。
もっと顔色の悪いときに出歩いていたのかとも思ったが、
それは言わずにおいた。

中庭が見える廊下まで来て、
は窓の縁に座って外を見ていた。
リュウガはその隣に立って、
いつ倒れても大丈夫なようにを見ていた。

「あのボール持ってる子。
 ちょっと前まで引っ込み思案でずっと一人だったのよ?」

の言葉が終わるか否かというときに、
少年はボールを投げ、向かいに立っていた別の少年がそれをキャッチした。

「みんな成長してるなあ」

が嬉しそうに窓に顔を寄せる。
リュウガは子ども達の一人ひとりの区別はつかなかったが、
「そうだな」と相槌を打った。

「でも、これ以上は見られないのかなあ……
 嫌になっちゃう」

むう、とが唇を尖らす。

そこで子ども達がに気がついたらしく、
腕がちぎれんばかりに激しく手を振ってくれた。
もそれににこやかに応える。
そのときばかりは気力を振り絞ったのか、
背筋も伸びて、この城に来たときと同じようにも見えた。

「……無理をするな」

もう同じだけの体力などないのに。
と、非難のこもった声で言うと、は苦笑した。

「うん、ごめん、ちょっともう厳しい、かな」

がそう言ったので、
リュウガは当初の予定どおりを抱き上げた。
悲しくなるほどに細く、軽い。
まだ子ども達に手を振っていたが、リュウガは窓際から離れた。

子どもの姿が見えない位置だと理解した瞬間に、
はリュウガの胸に頭を預けて、ぶらりと腕をおろした。

「辛いか?」

「ううん、ちょっと疲れただけ」

がそう言うので、リュウガはそれ以上追及しなかった。

あまりに負担を掛けないように細心の注意を払いながら、
それが可能な最高の速度で歩いて部屋に戻る。
は疲れた様子ではあったが、意識ははっきりしている。
ボールを受けていた子はいじめっ子だったのよ、とか、
そこのお母さんがすごくしっかりした人で、とか、
そんな話をとめどなくする。

リュウガは相槌をうち、の目を覗き込み、二人で笑い、
そんなことをしているうちに部屋に着いた。
ベッドにを寝かせて、布団をかける。

「しばらく休め」

「うん、そうする。
 ありがとう」

がそう言ってあまりに幸せそうに微笑むので、
リュウガはその頬に口づけた。

「おやすみなさい」

照れるでもなく、はそう言った。
リュウガも「おやすみ」と返して部屋を出た。

……どうしてなのだ!

リュウガは心の中で叫んだ。
何かが悪いことをしたとでも言うのか。
それとも、リュウガだろうか。
誰に恥じることもない、まっとうな人生を歩んできたつもりである。
それなのに!

の病に効果が得られるという薬は手に入らない。
どうにか生産したいところだが、
リュウガの下にはそんな技術者は居ない。
出来ることは、待つことだけである。
それが酷くもどかしい。

簡単に薬が手に入る状況であれば、
との再会は無かったかもしれない。
しかし、再会したからには薬が欲しい。
そんな我がままを言うのは、何年ぶりだろうか。
リュウガは自嘲しながら、
の眠りを妨げぬよう、静かにその場を離れた。