手のひらにある


リュウガは一人部屋のソファに腰を下ろした。
背もたれに体重を全て預けてしまう。

(疲れているな……)

柄にもなく頭をぐしゃぐしゃと掻き、
深いため息をつく。

全身に血の臭いがこびりついている。
ねっとりとした血の感触が肌に残っている。
悲鳴が耳の奥でこだましている。

忘れられるはずが無い。
否、忘れたく無い。

この感覚を忘れると、
人ですらなくなってしまいそうな気がしていた。
人の皮をかぶった、化け物。
そうはなりたくなかった。

ラオウにつくと決めたときから、
このような事態は覚悟していたはずだった。
ラオウは自分にも厳しく、他人にも厳しい。
己の力で道を切り拓く意思を持たぬ者には、特に厳しい。

抵抗する術も、意思も持たぬ人を殺した。
それは試合の末の結果でもなんでもなく、
ただ、虐殺を敢行しただけである。
兵士達だけの手を汚させるのも気が引けた。
だから自分も虐殺に参加したのだが、
予想以上に精神の方が疲弊したようだった。

女官が現れて、水を用意した。
そのまま下がるかと思いきや、
少し離れた場所でとどまっている。
リュウガはまぶたを持ち上げた。

「下がりなさい」

「いやでございます」

女官が近付いてきて、跪いてリュウガの手を取った。

「……リュウガ様はお疲れなご様子です。
 私ではお力になれませんか?」

そういって、気遣わしげな顔でリュウガを見上げている。
嫌悪感が先にくる。
しかし、相手はただの女官である。
振り払いたい衝動を何とか押さえ、
優しく手を解かせた。

「必要ない。
 一人にしてくれ」

女官はショックを受けたような顔をして、
そうしておとなしく部屋を出て行った。
部屋に再び静寂が戻る。

ならば。
ならばどう声をかけてくれただろうか。

柄にもないことをするからよ、と笑い飛ばしただろうか。
それとも、無理のしすぎよ、と慰めてくれただろうか。
屈託なく笑っている顔も、
少し困ったような笑顔も、
どちらも目の前にあるかのように思い出せる。

どちらにしても、はもう居ない。
目を瞑り、の思い出を再生する。

どうして先に死んでしまったのか。
ラオウならば、いち早く乱世を平定できただろう。
自分ももう少し早く動き出せばよかった。

思い返すと、後悔ばかりである。
とても疲れた。
に会いたい。

そう思いながら目を開けると、
向かいの席にが見えた。

……?」

名を呼ぶと、は苦笑しながら首を傾けた。

『無理のしすぎよ』

と、言われたような気がした。

「無理ではない。
 俺が決めたのだ。
 少しでも早く、乱世に幕を引くのだと」

は相変わらずの顔で首を傾げている。

には間に合わなかった。
 だが、他にも平和を求めている人間は五万と居る。
 そのためにラオウに付くと決めたのだ」

その結果が、これである。
もう、天狼とはいえないだろう。
魔狼と成り果てた自分には、は微笑まないのかもしれない。

「あと少しなのだ。
 あと少しで、ラオウがこの乱世を平定する。
 そうすれば、待ち望んでいた、平和が来るんだ」

それまでに、どれだけの血が流されるだろうか。
その血が、自分を孤高の星から奈落へと引きずり落としていく。

は困った顔のまま、座っている。
これは幻である、とリュウガにも分かっている。
それでも、無意識に慰めてくれることを期待していたようだった。

「……もう傍には、居てくれんのだな」

リュウガは両手で顔を覆った。
はもう遠い。
平和はまだ来ない。

今、自分の手の内にある物は、
渦巻く怨嗟と血の臭いくらいなものである。

『私は、リュウガに幸せになってほしいのよ』

すぐ傍で声が聞こえた。
手をはなして顔を上げると、が隣に座っている。
悲しそうな顔をしている。
そんな顔をしてほしいわけではない。
柔らかそうな頬に触れようとしたが、
のばした手は何物にも触れることなく空をかいた。

が居れば、幸せだった」

『優しそうな子だったじゃない』

「見ていたのか」

『傍に居ると、約束したもの』

は笑って手を伸ばした。
ひやり、と触れられた頬が冷える。

『私を思い続けても、リュウガは幸せにはなれないわ』

「俺は、と共にあると決めた」

『不幸なままでも?』

「望むところだ」

リュウガが笑って見せると、
は泣きそうな顔になった。

「笑ってくれ」

『無理よ』

「お願いだから」

は困ったような顔で、
泣きそうなまま、笑って見せた。

「器用だな」

『早く忘れて頂戴』

「忘れるものか」

リュウガが腕を開くと、
が胸に飛び込んできた。
本人がそうしてくれても抱きとめられる自信があったが、
目にしていたに質量はなく、
ひんやりとした風が頬を撫でた。

それきり、姿が見えなくなった。
抱きしめるものが何も無いので、
リュウガは己の腕を掴んだ。

泣いてしまいそうだった。
それでも、長年の努力の結果なのか、
リュウガの目から涙がこぼれることは無かった。

孤独には慣れている。
だって傍にいてくれる。
何が寂しいものか、辛いものか。
耐えられないはずは無い。

リュウガは自分にそう言い聞かせて、
気が済むまで己の腕を掴んでいた。