風に舞う塵を掴む


はさほど有名ではない、小さな城に奉公に出ていた。
戦乱の世にあって、
この城も戦時特有の落ち着きの無い空気に包まれていたが、
それでも元いた城よりは随分とのんびりしていた。

(氏政様は元気かなあ……)

ぼんやりとかつての主を思う。
彼は小田原城を追われ、風魔の手引きで山村へと移された。
も一時期は彼と行動を共にしていたが、
その主の配慮もあって再び山を下りた。

『いつかはワシの娘として、
 良い家へ嫁がせてやりたかったんじゃがのう……』

そう言ってしんみりしていた老人の丸い背中が目に浮かぶ。
彼の願いを叶えるべく、
は風魔の多大な尽力の末に奉公に来ている。

村を出るときに約束させられたことがある。
二度とこの村には戻らぬということと、
風魔の存在に関する一切について口外しないことの二点である。

幼い頃に実の親を失って以来、
氏政はを実の娘のように可愛がってくれた。
その父のような存在を捨てることに抵抗はあったが、
押し切られた形ではその条件を呑んだ。

が幸せに生きること。
それが今のに課せられた使命である。
氏政にはっきりと言われた。

奉公の仕事に最初は緊張していたが、
言われることは簡単なことばかりであるし、
ここよりも随分大きな城であった小田原での生活のおかげで、
各所の役割なんかは最初から頭に入っている。
飲み込みの良い新入りよ、と褒めてくれる人も多い。

気になる人も出来た。
向こうも憎からず思ってくれているらしい。
祝言を挙げ、家庭に入り、子でもできれば氏政に誇れるだろう。
そんな通り一遍の人生を思い描いていた。

昨日までは。

「松永めの軍は既に城を包囲……!
 今より篭城の準備を整える。
 そう心得よ!」

ばたばたと知らせに来た男が駆けていく。
篭城。
は小田原の戦を思い出して恐怖した。
攻め手は守り手の何倍もの兵力が必要になる。
兵力も兵糧も十分な攻め手に囲まれれば、
守り手は相手が諦めるのをずっと待たねばならない。
たとえ、皆が飢えてゆこうとも。

城に居た女達は厨近くに集められた。
男達は鎧を纏い、
刀を佩き、厳しい表情で歩き回っている。
物々しい雰囲気が城を覆っていく。

そうして、数日が過ぎた。
は夜中に目が覚めた。
女衆が集められた雑魚寝の部屋には複数の寝息が聞こえるばかりで、
なんら異変は無い。

ふと、頭上に闇が凝っているのに気が付いた。
悲鳴を上げる前に闇から伸びた手がの口を塞いだ。

「……」

無言。
目を凝らすと、そこにはよく見知った顔があった。
二度と会うことは無いと思っていた、風魔である。

風魔は人差し指を口の前で立てた。
静かにしろ、という意味だろう。
が頷くと口を押さえていた手を離した。

起き上がるように肩を叩かれたので、
は慌てつつも慎重に布団から出る。
風魔はをそのまま担ぎ上げ、そっと部屋を出た。

何か怖いことが起こるのだ。
でなければ、風魔が来るはずがない。
は自分の口を自分の両の手で押さえながら、
風魔が脚を止めるのを待った。

彼がをおろしたのは、
城に程近い山の木の上だった。

「下りれないよ」

そう言うと、風魔は頷いて姿を消した。
待て、ということだろう。
は用意されていた上着にくるまって、
とりあえず木から落ちぬようにもぞもぞと座りなおした。

の場所からは城が良く見えた。
城を囲む兵士も見えた。
そして、徐々に燃え広がる炎も見えた。
城が燃えていた。
時折爆発音が聞こえ、炎が踊る。
風魔が来てくれなければ、も今頃はあの炎の中にいたことだろう。

日が昇り、鎮火し、
それでも風魔は戻ってこない。
は木の上でじりじりと待った。
緊張からか疲労が激しい。
そろそろ限界だと思い始めた頃、月明かりの中に風魔は戻ってきた。
小さな握り飯を持ってきてくれた。

風魔はの頭を撫でた。
氏政は彼を子か孫のように可愛がっていたが、
風魔の方でもそれは不快ではないらしく、
を妹か何かのように何くれと助けてくれる。
すこし泣きそうになりながら、は握り飯を頬張った。

風魔はを抱え上げ、枝から飛び降りた。
危なげなく着地し、そのまま走りだそうとして、
急に脚を止める。

「どうしたの?」

は風魔の顔を見上げたが、
彼の顔から表情を読み取れた試しは無い。

「風魔よ……姿が見えんと思ったら、こんな所に居たか。
 そちらのお嬢さんはどなたかな?」

がさがさ、と音をたてて下草を踏み分けながら声が近付いてくる。
風魔は答えない。
彼が話したところは一度たりとも見たことが無いが、
その全身からはやはりこれまでに無い緊張が漂っている。

「こんばんは、お嬢さん。
 卿が風魔の何なのか、教えてもらえると助かるのだが」

木立の影から男が現れた。
左右で色の違う陣羽織を羽織り、
かすかに火薬の臭いをさせている。
その男がを値踏みするようにじろじろと眺めている。

困った。
風魔に関して一切のことを口にしないと約束していたからである。

風魔は彼に襲い掛かるでもなく、
を下ろすでもなく、
おそらく逃げる機会をはかっている。

「……仲良くだんまりかね。
 まあ、良い。
 風魔よ、卿が助けたそちらのお嬢さんの命が惜しければ、
 ただちに仕事に戻るのが得策だと思わんかね」

男は口元は笑っているものの、目は笑っていない。
風魔はそこでようやくを地面に下ろした。

「そんな怖い顔をせずとも、私は女に不自由しておらんよ」

彼は風魔の表情が読めるのか。
は風魔の顔を見上げたが、
いつもと変わったところはまるでない。
背中に大きな手が優しく触れて、そして風魔の姿が掻き消えた。
大丈夫だ、と言われたような気がした。
目の前に残った男はやれやれ、と肩をすくめる。

「私は彼の雇い主である松永久秀だ。
 卿の身柄は暫く私が預からせてもらうよ」

「……」

は松永の冷たい視線に背筋が凍った。
懐に忍ばせた小刀を布越しに掴む。

「妙な気は起こさんことだ。
 私に面倒をかけさせないでくれたまえ。
 陣に戻るから付いてきなさい」

松永は踵を返して歩き出したので、は慌ててその後を追った。
それと同時に、周囲から一斉に人が動く音が聞こえた。
無理に突破することは不可能なようである。
は小刀を掴んでいた手を、所在無くおろした。