happiness
はただひたすらに逃げ出したかった。
厳しいばかりの師父も嫌いだった。
そんな師父に
を預け、どこかへ消えた両親も嫌いだった。
自分一人で生きていくのは難しいと思っていたが、
とにかくリハクの所から逃げ出すのが第一歩である。
そう思って、リハクが他所の人と話している間に、
こっそり逃げ出すことにした。
が、それはすぐに失敗に終わった。
「……おや。
君はリハク殿の所の」
廊下を曲がったところで、出会いがしらに誰かにぶつかった。
その相手は
がしりもちをつく前に抱き上げてくれたので、
今はその顔が目の前にある。
「そんな顔をしなくても良いよ。
私は君を殺したりしない」
笑みを浮かべたその人は、
をゆっくりと床におろした。
そのおかげで、
彼の足元に
よりは少し年上と思われる少年が居るのに気が付いた。
「サウザー、リハク殿を呼んで来てあげ――…」
「やめて!」
はその声を遮った。
呼ばれては困る。
今から逃げるのだから。
「しかし」
「家出するの。
だから、内緒にして」
は必死だった。
男性は目を瞠り、そして微笑んだ。
「そうか。
では君の師父、リハク殿には私から上手く言っておこう。
しかし女の子を一人で放り出すのは駄目だ。
サウザー、少し
さんの相手をしておくれ。
これでジュースでも買うと良い」
男性はサウザーと呼ばれた少年に小銭を渡した。
「はい!」
サウザーは満面の笑みでそれを受け取り、
の手を引いてジュースを買いに行った。
その間に男性はオウガイという名前で、
そうしてサウザーの自慢の師父なのだという話を聞いた。
それから暫く、
はオウガイとサウザーと暮らした。
の記憶にある中で、その数日間が一番楽しい時間だった。
その楽しい時間の終わりは、すぐにやって来た。
リハクの差し金ではなく、
自身の問題によって、である。
はサウザーと野山を駆け回ってみたり、
料理の下ごしらえをする日を過ごしていて、
言いようの無い違和感を感じるようになった。
二人とも
に対して随分と優しい。
真綿でくるまれているような、居心地の良さと息苦しさ。
その思いはオウガイに筒抜けであったらしく、
食事の最中に「戻るかい?」と優しく尋ねられた。
は顔を顰めたが、「はい」も「いいえ」も言えなかった。
「そんな顔をしないでやってくれ。
リハク殿も君が憎くて厳しくしている訳ではないのだよ」
オウガイは微苦笑した。
「でも……」
「君は利発な子だ。
だから、自分の居場所はどこなのか知っている」
サウザーは口を挟まず、もくもくと魚をほおばっている。
「リハク殿には今回のことについて叱らないでやってくれ、
とお願いしておいたよ。
君は真面目すぎるようだから、息抜きが出来るようにともね」
オウガイは
の前にスープの皿を出したが、
は手をつける気にならなかった。
「リハク殿は師としては立派な方だが、親としてはまだ若い。
今はまだ君もリハク殿もお互いを良く知らないから、
もう少し時間をかけてみても良いだろう。
判断するのはその後でも遅くない。
でも、もし君が一人前になって、南斗の力になってくれたなら、
私もサウザーもきっと心強く思うだろう」
オウガイはそう言って、
の目を覗き込んだ。
はぼろぼろと泣いた。
「本当に?」
「ああ、本当だよ」
「一緒に頑張ろうよ、
」
サウザーがにこにこと笑っていた。
いつでも相談に乗るから、とオウガイも言った。
次の日、
はリハクの元へ戻った。
それはリハクのためではない。
勿論
自身のためでも、
リハクが口をすっぱくして言う南斗のためでもない。
オウガイとサウザーに必要とされるためである。
そのためにリハクに学び、そして軍師となるのだと決めたのだ。
リハクは相変わらず随分厳しかったし、
も何度か心が折れそうになったが、
そのたびにオウガイとサウザーのために頑張るのだと言い聞かせた。
そうしているうちに、厳しくされることにも慣れた。
結局オウガイやサウザーにはそれから会うことも無かったが、
ずっと
の心の支えではあった。
そうして時が過ぎ、
リハクから与えられる課題も難易度が上がった。
しかし、まだ軍を実際に指揮させてはもらえなかった。
地味な準備ばかりを任され、
軍師らしい仕事といえば卓上に広げた地図を挟んで、
戦闘の推移について討論するくらいのものである。
そんな合間に南斗の情報が入れば良いと思っていたが、
リハクは六聖拳とは距離を取っていたためそれも叶わなかった。
サウザーは早々に鳳凰拳の伝承者となったことは知っていたが、
オウガイの評判はまったく耳にしなくなった。
誰かに詳しい話を尋ねてみたいと思ったが、
理由を話すのは億劫であり、
結局その疑問は胸に秘めたままだった。
何せ、リハクから与えられる仕事も忙しく、
そちらの情報収集にまで手が回らない。
もしリハクが抱えている諜報用の部下を使えたら、
そのあたりの悩みはすぐに解決できたと思われたが、
生憎その権限は与えられていなかった。
そのリハクが
を他所へ出そうとしている、
ということが分かった。
が希望するのは勿論サウザーの元である。
リハクに伝えてみたが、あまり良い反応は得られなかった。
ただ、準備をしておけという指示だけがあった。
には従う以外の選択肢が与えられなかった。
その日、
は応接間に呼び出された。
普段はそのような客と
は接触したことが無い。
慌てて客間に入ると、癖毛の男がリハクの向かいに座っていた。
「おお、来たか。
こちらはお前を暫く預かってもらうリュウロウ殿だ」
リュウロウ。
名前は耳にしている。
流鴎拳の伝承者、南斗の知将。
サウザーに楯突く男。
「はじめまして、
さん」
拳士には珍しいやわらかい物腰に一瞬オウガイを想起したが、
彼は違う。
全然違う。
「……はじめまして」
は一応そう挨拶したものの、
内心はリハクに対する怒りで腸が煮えくり返りそうだった。
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