smile
ここ最近、街に居付いている人物が居る。
彼はいわゆる旅人で、
この街の人間ではない。
それでも頻繁に顔を出すので、他の旅人以上には知られた存在である。
「お前程度じゃ何人集まっても一緒だろ?」
暴漢を軽くあしらって、そう言って店から蹴り出した。
そしてくるりと振り返り「飲みなおそうぜ」と笑みを浮かべる。
張り詰めていた空気はそれで緩み、
強い味方を手に入れたのだと皆笑みを浮かべるのだ。
「なあ、
ちゃん。
なんでいっつも怒ってんの?」
カウンターの中でグラスを拭いていた
に、
その旅人――…ジュウザは声をかけたのだった。
「怒っていません」
「笑ってない」
「笑っていない人は全員怒っているんですか?」
「そうじゃねーけどさ」とジュウザは口を尖らせた。
「ほら、頑張った俺に笑って見せてよ?」
「そういう台詞は、
向こうの席でお待ちかねのお姉さま方に言ってください」
ジュウザの背後のボックス席で、
女性陣がジュウザに熱い視線を送っている。
確かに、彼ほど強い男についていれば安心できるだろう。
「つれねーなあ」
ジュウザは笑ってそちらへ歩いていく。
はため息をついて、磨き上げたグラスを棚に戻した。
はよく観察しているので知っている。
ジュウザは表面上は優しいが、本当は優しくない。
彼がボックス席に座ると、
周囲の女性が甲高い声を上げた。
彼女らはジュウザの何を見ているのだろうか。
笑みを貼り付けて、本心を隠しているようにしか見えないのに。
皿を洗っておいてくれ、というマスターの指示が飛んできた。
はおとなしくしたがって、店の奥に引っ込んだ。
それからも、ジュウザは店に通っている。
もはや「笑ってよ」というお願いは挨拶の一環のようにもなっているし、
は面倒だと思いながらも、
「他の人に言ってあげてください」と律儀に返事をするのだった。
笑ったところで何があるというのだろうか。
何も得る物など無い。
ジュウザが街に通うことで、変化したことがあった。
誰もがジュウザを戦力として数えていた。
だからこそ彼が女性を掻っ攫っても文句を言わない奴も多かったし、
女性達はジュウザをモノにしたいと考えているようだった。
それこそ、雲を掴むような話である。
そうして、その日が来た。
その日、食料を狙った暴徒が街を襲った。
ジュウザは不在だった。
それが通常の状態である。
なにせ、彼は旅人なのだから。
ジュウザを頼りにしていた人間は慌てふためき、
浮き足立った自警団は瞬く間に殲滅されていった。
は厨房の、オーブンの中に隠れていた。
本来の用途のために扉が一部ガラスになっているが、
そこに黒い布を貼りつけて、中の棚を外して、
避難所として以前から用意していたのだった。
電気が無いからこそできる、手軽な隠れ場所である。
マスターは武器を片手に出ていったが、どうなったのかは知らない。
オーブンの中で震えていると、
厨房を抜けて食料庫の方へ駆けていく足音が複数聞こえた。
明らかにマスターではない。
足音が一つ近付いてきて、
かちかちかち、とオーブンのつまみを回す音がした。
「ここにゃ電気が無えから飾りだろ」
「そうだな」
足音が離れていく。
悲鳴が漏れそうになったのを、
両手で口を押さえてなんとかこらえた。
どれくらいそうしていただろうか。
人の気配が厨房から消え、
の心臓が漸く普通の速さで動き始めた頃である。
貼り付けていた黒い布の隙間から、厨房の中の様子を確認した。
暗闇になれた目でも、人間の姿は見つけられない。
少しだけ扉を開けて、音を確認してみる。
耳が壊れているのではないかと思われるくらいの静けさである。
は扉を開いて、そろそろとオーブンから出た。
長時間丸まっていたので、体の節々が痛い。
物音がしないか最大限に注意を払ってみるが、
何の音も聞こえない。
身をかがめながら、店の方へ移動した。
食料を置いてあったスペースは空っぽで、
食器を仕舞っていた棚は倒れていた。
カウンター越しに店内を確認すると、
ソファからは中の綿が飛び出しているし、
机は真っ二つになって転がっている。
昨日までそこで人が寛いでいたとは思えない惨状である。
呆然と立ち尽くしていると、バイクのエンジン音が近付いてきた。
は慌ててカウンターの中に隠れた。
残党だろうか。
じっとしていればバレないはずだと自分に言い聞かせる。
「誰か居るか?」
間の抜けた声がした。
ジュウザだった。
がそろりとカウンターから這い出ると、
バツの悪そうな顔をしたジュウザがそこに立っていた。
「よかった、
ちゃんは生きてたんだ」
「私、は?」
「そ、俺が今日ここについて、
生きた人間に会ったのは
ちゃんだけ」
ジュウザが近付いてきて、手を伸べた。
はそれを払った。
「……もう、二度と来ないでください」
はまっすぐに、ジュウザを睨み付けた。
「あなたが居るから。
あなたが居たから皆、平和だと勘違いしてたんだから。
どうして特に何の取り得も無いこの街に何度も来たの?
こんな日に限って、どうしてもっと早く来てくれなかったの?」
ぼろぼろと涙がこぼれた。
八つ当たりだという自覚はあったが、止まらなかった。
ジュウザは
が跳ね除けたその手で
の涙を拭った。
「……悪かった。
もう、来ない。
約束する」
ジュウザはいつになく真剣な顔で自分の頭をかいた。
「……居心地も良かったんだけどさ、
ずっと
ちゃんが笑うのが見てみたかったんだよ。
いっつも真面目な顔で、あまりしゃべらなくて。
ちょっと、俺が愛した人の小さい頃を思い出した。
だからさ」
「笑えって?」
「そう、笑って」
はジュウザの顔を凝視した。
いつもへらへら笑っているジュウザが、
今は笑っていない。
「本当にもう、来ない?」
「約束する」
今まで
が笑みを浮かべなかったのは、
最初は本心からだったが途中からは意地だった。
笑みを浮かべたが最後、
ジュウザと話をする機会がなくなってしまうと思ったからだった。
ただでさえ愛嬌が無いと言われていたのに、
更にひねくれている。
どうしようもない。
加えて、ジュウザには思いを寄せる人がいるのだとはっきりした。
「愛した」と過去形で言ってはいるが、
さして美しくもない、愛嬌の無い
を見て思い出す程度に、
ジュウザはその人を思い出しているし、今も愛しているのだろう。
「笑ってくれないか?」
困ったような笑みを浮かべてジュウザが言う。
は、めいっぱいの笑みを浮かべた。
口角を持ち上げ、目を細めて。
涙が止まらないのは、許してもらおう。
「さようなら」
が笑顔のままそう言うと、
ジュウザは困ったように微笑んで頬の涙を拭ってくれた。
「笑ってたほうが可愛い」
ジュウザは立ち上がり、背を向けて、店を出て行った。
店の外においていたバイクのエンジンがスタートする音が聞こえ、
そのエンジン音が遠ざかっていくのを、
はその場に座ったままで聞いていた。
これで街は大丈夫。
きっと、
以外にも生き残っている人がいるだろう。
隠してある食料もある。
次の収穫まで耐えるだけだ。
何も問題は無い。
そんな見通しが立ったというのに、
胸にぽっかりと穴があいたようで、
は酷く苦しかった。
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