heaven
飢える。
は、飢えていた。
それは慣れ親しんだ感覚で、
もう飢えているということを忘れつつある。
水が。
食料が。
力が欲しい。
は太もものホルダーのジャックナイフと、
サバイバルナイフ、
手にしているブッシュナイフを確認した。
向こう脛のプロテクターをしっかりと付け直す。
背にしている塀の向こうを、
誰かが走っていく足音がする。
「どこだ!?」
「探せ!」
「殺してやる!!」
遠くで爆音がした。
敵は火薬も持っているらしい。
など、ナイフをそろえるくらいが関の山だというのに。
これでは原始人が未来人に挑むくらいの差である。
足音が遠ざかるのを待って、
は街の中心から離れた。
地の利はこちらにある。
目立たぬ細い道を選び、
足音をできるだけ消して。
の狙い通り、
親玉と思しき男は街の外に居た。
退屈そうにバイクにまたがり、
火の手があがるのを眺めている。
その顔は、ヘルメットに隠されていてよく見えない。
が予想していたのとは違い、
親玉の近くには誰も居なかった。
一人である。
それなのに親玉であると思ったのは、
彼が誰一人として持っていないような銃を担いでいるからである。
は男の後ろに回った。
そうして、地面を蹴って、
全体重と力を込めてブッシュナイフを振り下ろした。
「遅ぇよ」
男は既に
の存在に気が付いていたらしく、
バイクから立ち上がりつつ、
回し蹴りでナイフをはじいた。
の手がしびれ、ナイフが飛んでいく。
は背中から地面に落ちたが、
すぐに立ち上がり、サバイバルナイフを抜いた。
男がまたがっていたバイクがどう、と地面に倒れる。
別にそれに構う様子は無い。
「なんだ、お前、女か?」
からかうような口調で、男が言う。
「それが何か?」
「いいや、別に」
くつくつ、とのどを鳴らすような笑い方をする。
街から爆音が聞こえた。
「街を守るんじゃねえのか?」
「いいや」
「俺はお前一人に殺られる程弱かねえぞ?」
男が間合いを縮める。
街の炎を背にしているので、
男の影だけしか見えない。
その影が酷く大きく見える。
「私はお前の軍団が欲しい」
は地面を蹴った。
突進してサバイバルナイフで切りつける。
男はその手を簡単に掴んで見せたが、
もとより
の狙いはその一撃ではない。
はもう一方の手で、
ジャックナイフを抜いて男の太ももに刺した。
普通であれば痛がり、のたうつところである。
ところが男はちらりとそちらを一瞥しただけで、
気にかける様子は無い。
「それで終わりかぁ?」
そういって、
の頬を張り飛ばした。
視界がゆれて、一瞬足元がぐらつく。
勢い良く鼻血が出た。
流れ落ちた鼻血は、顎の先からぼたりぼたりと落ちていく。
「ふん……なかなか上玉じゃねえか。
これ以上殴ったら商品価値が落ちるな」
は男の太もものナイフを、蹴った。
「ってぇ!?」
さすがに痛かったらしい。
漸く男が
の腕を放した。
その隙にサバイバルナイフを振り回したが、
こともなげにかわされた挙句、突き飛ばされた。
しりもちをつく。
顔を上げると、目の前に銃口があった。
「……もう許さねぇ。
命乞いの言葉はあるか?」
「別に?
私の力が及ばなかっただけ」
「そうか、じゃあ死ね」
そう言って男が引き金を引く前に、
は銃口を掴んで照準を狂わせた。
耳元で爆発音がした。
鼓膜がいかれたかもしれない。
「チッ……しぶとい女だな。
一発無駄にしちまったじゃねえか」
は銃を引っ張り、
男が渡すまいと力を入れたところで突いた。
バランスを崩しかけたところで、
ナイフが刺さったままの足を引っ掛ける。
男が倒れたので、その上にまたがってナイフを首元につきつけた。
「……このナイフと鼻血さえなけりゃ、いい眺めだな?」
「水と食料と、あんたの軍を寄越しなさい」
切っ先が男の首の皮を切る。
ぷくり、と血の玉が出来た。
「そりゃあ、できねえなあ」
ヘルメットの向こうで、男が嗤う。
何がおかしいのか。
男は足に刺さったままのナイフを抜いて、遠くへ投げた。
「動くな」
「俺に命令するのか?」
男の手が
の太ももを撫でる。
ぞわぞわ、と肌が粟立った。
「許せねえなぁ」
ぴり、と電流のようなものが流れた。
急に力が抜ける。
何が起こったのか分からない。
手からサバイバルナイフが落ちた。
男が声を上げて笑い出した。
「女が俺の上に乗って良いときは、
アレの最中くらいなもんだ」
は前のめりに、男の上に倒れた。
完全に負けた。
どうなったのか分からないが、負けた。
かすりもしないほど、絶大な力に。
まだ機能している方の耳から、男の声が聞こえる。
ヘルメットごしの、少しくぐもった声が。
「欲しいものを奪おうっていうその心意気は感心するが、
俺からは奪えねえ。
男より強い女はいねえ。
そうだろ?」
男は寝返りを打つように、軽々と身を返した。
は地面に落ちて、逆に組み敷かれた。
抵抗したいが、体が思うように動かない。
「俺が最強だ。
俺こそが北斗神拳の伝承者にふさわしい」
男の手が伸びて、首筋を撫でた。
今度こそ殺されると思ったが、
ふたたび電流が走った。
流れていた鼻血がぴたりと止まった。
はだけたジャケットの下の胸にある、傷痕が見えた。
死を、北斗七星をかたどった、不穏な傷痕が。
「……殺さないの?」
「死にたがりを殺して何が楽しいんだよ。
折角捕まえたのに、こんな状態じゃ売れもしねえ。
この俺が生きたいと思う程度に極楽に連れてってやる」
最後の方は、
嘲るような、余裕のある口調だった。
バイクの爆音が近付いてくる。
手下達が戻ってきたらしい。
男は立ち上がって、
倒れている
を軽々と担ぎ上げた。
「あれ、ジャギ様その女どうしたんっすか?」
「阿呆、ケンシロウと呼べっつってんだろ」
「輪姦して良いっすか?」
「俺んだよ」
わいわいとジャギのところへ集まってくる男達が、
荷物を並べはじめた。
水が入った沢山のタンク。
傍には食料が入っていると思しき箱も。
「……おなかすいた」
「ああ?
まあ、確かにこの肉付きじゃマニアにしか受けねえな」
けたけたとジャギが嗤う。
水も、食料ももらえるらしい。
自分の手で奪わずとも、殺さずとも。
どうやらジャギは、
商品価値を損なわない程度に
を庇護してくれるらしい。
完全な敗北だった。
だからこそ、受け入れられる。
街一つ潰して食料を奪う男の元だったとしても、
売り飛ばされるという結果が待っていたとしても、
自分の手を汚さずに食料も見ずも手に入るなんて、
それは
が望んだ場所だった。
天国のような場所だ!
は嬉しくて嬉しくて、
ジャギの背中に顔を押し付けて笑った。
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