hurdle
ハンは目の前のチェスボードに集中していた。
白と黒の二色のボードに、同じく白と黒の駒。
それらは勝負に20連敗したために購入したもので、
ハンにとっては高価な買い物だった。
「いい加減諦めたら?」
向かいに座る
はゆったりと背もたれに体重を預け、
肘掛に頬杖をつき、
うっすらと笑いながらボードとハンを眺めている。
は戦いにおいて、戦力になるようなタイプではない。
彼女のような細腕では、どう頑張っても敵にダメージを与えられないだろう。
その代わりに、異常に明晰な頭脳を備えている。
チェスの対戦で考えこむところを見たことは無く、
ハンが考えている間に本など読む始末である。
盤上の形勢は、目に見えてハンの不利だった。
不利というか、絶対絶命である。
先ほどからいくら考えても、
近い未来には敗北が待っているとしか思えない。
そんな絶望的な戦局にあっても、ハンは楽しんでいた。
カイオウは道場を出た。
ヒョウもそれに従った。
ジュウケイは後継者をヒョウと思い定めているらしく、
ハンの立場は昔からずっとスペアの一つでしかない。
その微妙な立場の生活を続けられたのは、
ジュウケイにしごかれることで強くなっていることを実感していたし、
カイオウの情け容赦ない攻撃をかわすスリルがたまらない。
それ以外の理由は無い。
ジュウケイは年をとり、今では殆どハンの相手をすることは無い。
ハンの相手になり、スリルを味わわせてくれるカイオウは居ない。
そのつまらない生活に、再び敗北のスリルをもたらしたのが
である。
チェスが苦手という訳ではない。
自分が弱いという自覚は無かったが、
には一度も勝つことができていない。
訂正しよう。
敗北のスリルだけでなく、敗北を味わわせてくれるのが
である。
その
は何者かに命を狙われているらしく、
外出することはおろか、自室から殆ど外へ出ない。
時折侵入者が現れるが、
ジュウケイやハンが撃退している。
その刺客がまた、面白いのだ。
北斗琉拳の伝承者が居る道場に侵入するだけの度胸がある奴らである。
度胸だけでなく腕前も相当なもので、
ハンは彼らが来るのを心待ちにしている。
当初の予定では、既に道場を後にしているはずだった。
ジュウケイがハンに奥義を伝える気が無いことは暫く前に確認したが、
いまだに出て行くことができずにいる。
それからいくつかの駒を動かした。
ハンの駒は
に取られるか、戦局の中心から外れていく。
思ったとおりだ。
「……オレの負けだな」
これ以上無い、というところまで粘って、ハンは負けを認めた。
「次は何がいいかなあ……。
服とかかな。
確か、次で40勝でしょ?」
「そうだな。
間違いは無いが、オレが選んで気に入るか?」
「じゃあ、お菓子。
お祝いだからケーキとか、生菓子!
食べながら勝負ってどうだろう」
「まあ、構わんが。
オレが勝ったらどうする」
「どうするって。
お祝いに何か考えておくわよ」
にやにやと、
は意地悪そうな笑みを浮かべた。
早く道場を出て、広い世界を巡ってみたい。
カイオウのような強い男に出会うことは無いかもしれないが、
それでも楽しませてくれる程度の腕前の人間は居るだろう。
文献で知った流派の人間に出会い、
見たことも無い技を堪能し、
そしてひりつくような焦燥感を感じながら戦いたい。
そのような窮地に陥れば、きっと己の拳も高めることができるだろう。
老い、その上別の人間を後継者と定めているジュウケイの元にとどまるより、
何倍もの経験が積めることは間違いない。
より強くなるために、どうすれば良いのかは明白である。
確かにそう思っているのだが。
とチェスボードをはさんで向かい合い、
その勝敗を賭け、負ければ何かプレゼントを用意し、
時折襲来する敵を返り討ちにする。
そんな生活に満足しかけている自分が居る。
本人は、自分が何故追われているのか何も話さない。
明晰な頭脳が関係しているらしいというのは聞いたが、
はっきりした内容は分からない。
はっきりしているのは、
という名前くらいなものである。
ジュウケイは、「
がお前の身を案じているから言わんのだ」と言う。
そんなことはどうだって良い。
話を聞いて敵が増えるならば、むしろ願ったり叶ったりであるのだが。
彼女がどういった境遇にあるのかなど興味は無い。
刺客はハン一人でも十分に返り討ちにできる。
チェスの勝負は今のところ全敗である。
その状況が面白い。
そう考えている自分を確認して、
ハンは多少憂鬱な気分になるのだった。
両方とも手に入れる手段が無いわけではないが、
果たしてどうしたものか。
目の前でへらへら笑っている
を眺めながら、
憂鬱な気分を引きずりながら、
どうやって
を連れ出してやろうかと考え始めたのだった。
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