温泉へ行こう!
前を歩くお館様は、獣道のような細い道を迷いなく歩いていく。
道に迷ったのかしらと思う程の細い道だが、
頼りがいのある背中には一片たりとも迷いが無い。
その背中には
の分も含め、二人分の荷物が背負われている。
従者の人間は少し前に待機を命じ、
獣道の脇に設置された小屋に残してきた。
それくらい秘密の温泉らしい。
「此処じゃ、此処じゃ」
そのお館様がようやく立ち止まったので、
はその脇から前をのぞき見た。
「うわあ、ほんとに温泉だ!
こんなところよくご存知でしたね?」
「うむ。
ここは地の者を除けばまだ数える程しか知らぬはずじゃ」
「え、そんな凄いところなんですか?
良いんですか?」
「
は特別よ。
先に入っておれ。
ワシは荷を解いてから参る」
「はーい」
は簡素な脱衣所で手早く服を脱いで、湯に身体を浸した。
「うー……!」
疲れた身体に熱い湯がしみる。
戦続きの武田軍ではあるが、その中でも最も忙しいのは信玄その人である。
他国の情勢を聞き、兵糧などの戦の下準備をし、
兵の調練を見て、ときおりやってくる幸村に稽古を付ける。
第一線を退いたとはいえ、
彼は武田軍を維持するためにまだまだバリバリと働いているのだ。
それでもさすがに軍神様との戦はこたえたのか、
短い休暇をとって湯治に来たという訳である。
忙しい合間を縫って簡素な祝言を挙げたとはいえ、
戦続きだった
にとっても良い骨休めにもなるだろう、と。
にとっては、こうして一緒にいられるだけでかなり嬉しい事である。
戦ともなれば
の相手ばかりしてくれるはずもなく、
こうして信玄を独り占めできる時間というのはごく限られている。
それ以前に独り占めして良いのかどうか、という不安もあるが。
家の格も違う上、年も離れた
である。
持ち前の漢気で「責任を取る」と祝言を挙げてくれた信玄であるが、
簡素にして欲しいと頼み込んだのは
だった。
忙しいさなかに
のような小物との祝言を賑々しくするのは、
巻き込まれるほかの人々に申し訳ないと思ったからである。
(……うう、折角の骨休めなんだもの。
現実は忘れよう)
はぱん、と両手で頬を叩いた。
温泉は岩の間から湧き出しているようで、
ごぼごぼと絶え間なく流れおちている。
随分温度が高いらしく、川か何かからも水を引いているらしき樋もある。
申し訳程度の目隠しなのか、
あまり手入れのされていない生垣が周囲にめぐらされており、
その外から伸びた青々とした枝葉が空を覆っている。
ここはすっかり別世界のようだ。
贅沢を言うならばもう少し涼しい秋口にくれば、
長湯をしても大丈夫な上、
紅葉も色づいてきっと綺麗な景色になることだろう。
「ぬう……」
背後で信玄がうなるのが聞こえた。
少し遅れて波が
の所まで到達する。
振り返ると信玄が手ぬぐいで顔を拭いていた。
「ここはやはり格別じゃ」
「素敵なところです」
「そうじゃろう?」
いつもの力漲るお館様とは違う、すこし緩んだ声が面白い。
「お主がそう笑うてくれるのを久しぶりに見たわ」
びくり、とした。
「そ、そうですか?」
「祝言をあげてからずっと引きつっておったぞ」
「それは――…」
「まあ、思うておることは大体察しはつくがの」
ふう、と信玄がため息をつく。
「ワシも逸っておったようじゃ。
許せ」
「……いえ、お館様に謝って頂くようなことでは」
「ここには二人しかおらぬ。
お館様はなかろう」
お館様と呼ぶ癖が抜けないのは、ずっと指摘されている。
「……
よ。
ワシが何故ここにお主を連れてきたか分かるか?」
「それほど険しい顔をしておりましたか?」
「お主がワシにとって“特別”であると知ってもらいたいからじゃ」
信玄は適当にたたんだ手ぬぐいをぽい、と適当に禿頭に乗せる。
「他の奴らに取られる前にとワシ慌てたせいで、
お主は従者としての立場から変わらぬままじゃ。
しかも皆やっかんでおるのか夫婦水入らずの暇すら寄越さぬ。
そのせいでいらぬ気苦労をかけておる」
「そんなことは」
「聞き分けが良すぎるぞ。
はもっと我がままを言うて良い。
でなければ、また湯治に行くなどとワシが我がままを言わねばならぬ」
信玄は縁にもたれて空をぼんやりと上を見ている。
そういう完全に寛いだ顔を見るのは初めてかもしれない。
「では……」
「何じゃ?」
語尾に被せ気味に尋ねる信玄である。
「傍に行っても良いですか?」
「伺いなど立てずとも良いわ」
信玄は少し横に移動し、座りやすい場所をあけてくれた。
はいそいそとその隙間に座った。
「今は独り占めしても良いのですね?」
「お主が独り占めしてくれねば、ワシはどうすれば良いのじゃ」
信玄が声を上げて笑う。
結局気を使わせてしまったという後悔と、
独り占めできる幸せでどういう顔をしていいのか分からず、
はとりあえず締まりの無い顔で信玄に寄りかかったのだった。
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